人の個体差というのはなかなか認識理解できない。外見の形態はともかく、身体を脈動する血流の流れの量の違いのような精神の流れもあるだろうから、同じ行為をしている例えばマラソンなどでも、何を感じながらそうしているかを想定できない。ミュージアムに歩む鑑賞の人々も、番組を眺める居間に寛ぐ人々も、形態としては似通っているが、どのように受け止め、どのような印象と感情のパルスが身体を駆け巡るのかは、本人しか実感できない。
生体個体の感受が、人に同等なものとして看做すことは大いなる誤解を生む。それが「良い」「悪い」といった印象の決断も、簡単に分かち合えるものとは言い難い。長さ、重さ、量などといった途方もない違いがあるだろう。
個体にはそれぞれ傾向があり、それが肉体的な特徴により育まれたものもある。マラソンが得意と感じた人の話の中で、短距離は負けてばかりだったが、トラックを幾周も巡る距離が長い競争では、面白い程他の人間が脱落し、彼らの苦しそうな表情と肉体の疲弊に首を傾げたという。後に調べると、鼻孔から呼吸器への内蔵の経路形態が常人より太く、また遺伝的に皮下脂肪もなく、骨太である先天的身体の特徴が、長距離を走る人を示していたと知ったという。同じように、身体ではなく、頭蓋の大きさや網膜の程度、鼓膜の感度などにより、例えば感受の集中度の個体差もあるだろうから、1時間半の映画鑑賞を集中持続できる場合もあれば、30分以上TV画面をみつめることのできない器を持った人もいるだろう。「できる」「できない」といったことは大したことではないのだが、社会はこれを差別的なシステムとしてきた。
相対的差異を日常実感することもなく生を続け、徐々に自らの個体特徴に気づき、ようやく平穏な生活を取り戻す話もあるが、青年期特有の自分探しの希求衝動は、とかくこれに応じたものではないから、自らの本来的な形態の事実を無視した夢想となりやすいものだ。故に時に器に適正でない欲望を無理強いしてよりいっそうの泥沼に落ち込む場合もある。兎角自らに無い、不適合を求める傾向もこれを助長する。
本を捲れば眠くなるという人がいて、小説等も最後迄ページを読み切ったことがないと云う。それが具体的にどういった身体的特徴に依存したものかはわからないが、その人に、この本を読めというコミュニケーションを行うのは無謀であるし、彼が、足腰の脆弱な人間に、自身の得意とする登山に誘うことと同じというわけだ。本等読まなくてもいい。饒舌な人間程本等読まず、読書にのめり込んでいると寡黙となり、決定できない言葉が渦巻いたまま唇は閉じるともどこかで聞いた。
個体差異を前提とした社会が形成されているわけではなく、特にこの国の戦後高度成長期は、これに逆行する均質化が合理とされ、皆が同じでなければ全体成長はできないという錯覚に支配されていた。その名残は世代感覚の残滓として、高度成長期を走りきった世代の言葉の端々からにじみ出ることもあり、その度に不快な気分がする。
朝から晩迄本を読む集中が可能な人間から漏れる言葉があり、バランス身体を効果的に使うアスリートの言葉があり、絵の具に戯れる集中持続可能な画家の言葉もあり、楽器を肉体化する音楽家の言葉もある。全く同じレヴェルで、さまざまな状況的個体差のある言葉もあり、これらは等しく併置されている。24時間を人間が同じように過ごすことがよろしいと決めつける理由はひとつもない、特徴に応じた個体のいわば「都合」こそが、個体の存在の深さに直接つながるものだ。
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