狡猾と愚直

 態度を二分化させるわけではないが、創作においては所謂狡猾な「上手」な「巧い」作品とされるもの(あるいはそう呼ばれたいもの)は、鼻につく。鬱陶しく、何かイルミナティー(陰謀)のような差別的な「悪」の気配が滲むのはなぜだろう。気づかない者は死ぬ迄「上手」だ「巧い」ねと呼びたい呼ばれたいだけのことで終わる。故に更に狡猾に罠を仕掛ける土壷にハマって「ワタシは上手でしょ」と言うわけだ。愚鈍愚直な臨機応変が時には折れる仕方なさのほうが余程清々しい。という印象が生まれたのは、まだ若い越ちひろの新作展を観た帰り道の車の中だった。越ちひろの作品が、例えばどこかの誰かではなく、ルイ・ヴィトンの本社ロビーとかに設置されたほうが、余程世界が平和になるとふと浮かんだものだ。
 現代の作家による絵画が、どのような必然と偶然で生成するのか、個々が置かれた環境に応じてあまりに多様な状況があるだろうけれども、極めて明白なのは、人間として正直であるしかないことであり、嘘、見栄、虚栄を伝達することではないという決意を表明することであって、それはつまり、ある種の「つまらない」「どうしようもない」ひとつの人間にすぎないことを宣言するような、馬鹿げた告白(懺悔)からしかそれははじまらない。
 絵描きは、株式会社の合理的生産性の向上を目指すコンプライアンスの構築とその集団的実践とは異なり、勿論、詐欺、陰謀の類いではない(複製画家の倫理という問題は別として)。自ら独りでしかできない決断をまず選りすぐり画面に与え続ける孤高の存在であり、その結果もトータルに独りで受け止めた上で、持続と反復が可能な精神生活を抱ける(愛せる)者と云える。故に作品を含めて希有な存在となり、彼あるいは彼女の生きる共同体にとっては、その集合体の象徴とか総意とかと一線を異にした、特異な顕われとなる。併し兎角共同体とか社会というものは、時にアメリカ的リーダーシップをそこに充てがい、時に政治家宛ら自らの憑依代表と妄想し、あるいは手前勝手な代弁者程度に考える。未だ貧相な近代的な教養美学の元で、唾を吐く者たちは、利己的な「技巧」にしか関心を示さず、特異な存在の輝きすら傲慢に自らの手法に取り込めるとさえ思っている。そういった社会であるからこそ、創作は別の次元で意味と効果を持つとも云えるのだが。

 指先で幾度も触れて拭い擦り滲ませた痕跡が淡い調子の断片を生成しそれらが溶け合って連結しイリュージョナルな視覚的奥行きが生まれる。がしかし未だ浅い。手がかりとして記号的な形象が輪郭を荒立ててそこに置かれると、先程までの空間は変異して別の広がりを求めはじめる。画家はそれを待っていたかのように更に奥へ更に手前にと空間のボリュームを膨らませ、あるいは削り取り、自身の居る場所を特定するかの手探りを与え続ける。そしてあるいはその場所の確定からの逃走の道までをこしらえる。絵画と云う「泳ぎ(サバイヴァル)」をコントロールする意味で、越ちひろの新作(キラキラペインティング)は、ポロックめいたアクションペインティングとは異なり、彼女自身の精神の運動のシステムとしてようやく絵画がそれを全うする契機となるかもしれない象徴性を持ったように思う。