狡猾と愚直
態度を二分化させるわけではないが、創作においては所謂狡猾な「上手」な「巧い」作品とされるもの(あるいはそう呼ばれたいもの)は、鼻につく。鬱陶しく、何かイルミナティー(陰謀)のような差別的な「悪」の気配が滲むのはなぜだろう。気づかない者は死ぬ迄「上手」だ「巧い」ねと呼びたい呼ばれたいだけのことで終わる。故に更に狡猾に罠を仕掛ける土壷にハマって「ワタシは上手でしょ」と言うわけだ。愚鈍愚直な臨機応変が時には折れる仕方なさのほうが余程清々しい。という印象が生まれたのは、まだ若い越ちひろの新作展を観た帰り道の車の中だった。越ちひろの作品が、例えばどこかの誰かではなく、ルイ・ヴィトンの本社ロビーとかに設置されたほうが、余程世界が平和になるとふと浮かんだものだ。 指先で幾度も触れて拭い擦り滲ませた痕跡が淡い調子の断片を生成しそれらが溶け合って連結しイリュージョナルな視覚的奥行きが生まれる。がしかし未だ浅い。手がかりとして記号的な形象が輪郭を荒立ててそこに置かれると、先程までの空間は変異して別の広がりを求めはじめる。画家はそれを待っていたかのように更に奥へ更に手前にと空間のボリュームを膨らませ、あるいは削り取り、自身の居る場所を特定するかの手探りを与え続ける。そしてあるいはその場所の確定からの逃走の道までをこしらえる。絵画と云う「泳ぎ(サバイヴァル)」をコントロールする意味で、越ちひろの新作(キラキラペインティング)は、ポロックめいたアクションペインティングとは異なり、彼女自身の精神の運動のシステムとしてようやく絵画がそれを全うする契機となるかもしれない象徴性を持ったように思う。 |