時空を抱える

 川合くんの新作を上野の森美術館で観た際の印象をメモとして残す。戻ってから気になり、2012年にまちとしょテラソで開催された個展時の図書館景としての個展記録画像を眺めなおしていた。平面作品は限られた平面性の枠の中でその手法やモチーフ、テーマ性などが繰り返し語られてきているが、2012年と今回の企画展「VOCA展2016 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち」の美術館の展示室の空間を並べて、川合君の作品の持つ脱平面性は、作品をみつめる、作品の前に立つ人(あるいは前に座って読書をする青年)が、作品の持つ宿命に含まれているひとつの存在光景として某らの到達を示すのだと思えた。これは最早人が絵画という対象化する間主観的メディア(知覚接合システム)そのものを検証し、あるいはそれのみを問題にするレヴェルではない、つまりルーブルのモナ・リザの窓へ吸い寄せられる人々の光景ではなく、むしろアルタミーラの焚火で煮炊きしている夕刻の人々の生を従えるような意味合いの洞窟画の意味、時空とともにある絵画性という発現が、誰も予期しない内に独りの画家の運動に顕われているのではないのか。これは眺められている絵画という時空自体を構築しているカント的な超越論的展開といっていい。作家はその自覚があるというよりそれが定められている世代なのかもしれない。
 その前に立ち眺めることを予め作品の内部で済ましている彼の絵画性には、作品のスケールが必要となるが、今日スケールの拡張された作品の大義よりも意義と意味がなかなか見いだすことが難しい一面がある。今回川合君の作品自体ではなく、その前に立つ人が眺めあげる姿を含めた光景そのものが、作品の自明を示していた。故に彼にとってスケールとは、それを眺める人間を含める意味で理不尽ではない。
 上野の森の美術館の企画展は、多様な平面性の作家展であったので、この比較が容易にできる。つまり、閉じた平面性に囚われた「美的」な頓着に没頭するおぞましさもまだ累々と並べられていた。川合君の作品の置かれた場所も大いに意味があると思われた。