此処擱

 複雑な伽藍構造の長大な物語は鱈腹満腹の欲望として、ただただ受動的に満たされるだけなので、肥えるばかりで瞬発が失せるということだろう。というのもほんの風の触りで捲る薄紙に印刻された数行の言語がいきなりの間近な距離感で「此処」に打ち込まれるように融け広がった平出隆の「若い整骨師の肖像」「エレメンタ」の、詩幹系の根からの節々を、それこそ近寄って辿り直す言語存在の位置が、例えば翻訳から見出された併置にしても、垂直に重ねられた藝術の案配による解放の術のようなもので、こちらの能動気(その気)の間際までにじり寄ってどこかを揮わせ、些かも朧無く剥き出しの言葉そのものが詩によって顫動された自在のまま、実存と形而上とのトランスゲイズに作用するのだったから、この「距離」こそがと指先が触れるものを慌ててまた腰回りに探す。
 つまり、系を幾度も内省的に解放させるということと、感応の距離を測るということ。