予知と予感(或は公私)

 過去の検証(これは性癖であっても構わなかった)から生まれる倫理的洞察はつまり現時点における予知だと幾度も直覚があった(が、初動時には他者の過去であり検証に相応する自らの系がなかった)。90年代初頭に「距離と予知」という展開を試みていたが当時はほんのりとした予感(写真)に支えられていた。事実「あの時に不足していたことが今ようやく」と実感するような作業を現在行っている。これを無論確固たる予知として当時抱いていたわけではないにしろ、いずれ結ばれることになったあの時の「不足感」は、つまりどうして倫理的であったということはできる。その予知(予め理解する)が、現在にとってどのような機能を持つのかということになると、予知が予感としてあたらめて初期化され現在に於いて展き直されること(メンテナンス)自体を示すのが問題であって、物事の表れとそこに投入することは、その仕組み(注視)へのギミック(装飾)ではない。時を同じくして、「公」「私」の問題について重ねることが幾度もあり、言わば時空とともに揺れ動く「公私」への頓着からずれた立ち位置も難渋なその境界へ想いを注ぐ事(数十年前と同じような)ではない。融けかかっている領域への踏み出しのようなこととなったような気がしている。