フィクション

 ソンタグ (Susan Sontag, 1933~2004) の1966年出版著者33歳時の反解釈 (Against Interpretation)の、パヴェーゼ (Cesare Pavese, 1908~1950)に関する言及「模範的苦悩者としての芸術家」の中で、パヴェーゼの自殺に向った「端正」なフィクションについて、自身の真実に向うしかない「芸術家」の破綻するしかなかった「認識の愛」について、ソンタグ特有の切断力が綴られているが、捲りながら、小説家の「フィクション」と自己の真実に迷妄しつつ抑制したスタイルを構築したパヴェーゼを擁護するソンタグの唯物的作品至上主義的に切り捨てられる言説から、フィクションの先に託されたように配置されている「彼方」は、真実への吐露とイコールという導きを示している。これはつまり、「私は嘘つき」であると言及する場合と。「私には嘘はない」ということの同義的な地平を矛盾無く示すことであり、彼方に「嘘とは何か」という問いを放って検証する土台をつくるようなものだ。このような批判の姿勢はソンタグ特有と云うわけでもないが、認識(解釈)のロジックのコンテクストを太い強度のあるものに変質させる効果はあると今更に思うのだった。

 同じように、「描写」が自己言及的なものであれ、アリストテレス的模倣であれ、「描写」というスタイルによって開かれた「過去」と「未来」は、そのスタイルによって、感応対象となる。それだけのことだ。