「気づけばしめたものだ。ほとんどが気づかない。否、気づかないほうが幸せでよろしい」
一体何の話をしているのか。遠くで聴こえた。
まさか世界の真理のことではなかろうに、瞼を閉じたまま、次を待っていた。
記録は現在必要としなければ無意味であるが、目の前に広がるほとんどは時間の堆積である記録であるから、記録など不必要な今があっても、記録の充満から逃れることはできない。荒野であっても砂漠であったとしてもだ。経験とはだから記録とも言える。
記述記録する者、若しくは、撮影記録する者は、この記録の充満に更なる充溢を与えるために行為しているわけではないだろう。拙い恣意の介入とその効果をほくそ笑む精神は、それはそれで可愛いが、恣意を剥がす効果の照り返しを知った者は、行為自体の責任に囚われながら、例えば、毒で死ぬ者の意味を体感する。残された者はその毒で死ぬことの危険を知ると同時に、毒で死ぬ甘美を抱き寄せるものだ。
ある写真家が、わたしが絵を描いていたとしたら、今頃もっと違った立場、スタンスに座すことになったろうと、いささか自虐をプライドに振りかざして口にしていたが、絵描きが吐く同じ台詞を聞いたことがある。いずれにしても、そんなことはどうでもよいことであって、何を記録してそこに何を見て何に気づくのかということに尽きる。何も見る必要のないものは、記録の垂れ流しをかけっこのように繰り返して振り返らず、身体の痛みだけに文句を言う。恨みながら目を閉じる。棺の中で疲労した身体をつくづく愛した実感、利己的なドーパミンと共に灰になる。ドーパミンにも活性と不活性という顕著にわかれる遺伝子差異があるらしい。
気づいたことでこちらのどこかの何かが漲って、目をおっぴろげたままその気づきを加速させる短絡が、悲劇的であっても、悲観論の証となっても、気づきを棄てる楽観よりも良いのではないかと最近考える。
ゆえに、この残された記録は一体何かと、見つめる時間ばかり膨れている。
写真にも絵画にも、撮影者、絵描きの視線が、いかようなスタイルであったとしても、その正当性を保って真ん中を貫いており、まずは大いなる差異と他者性を誇るものだが、当事者に帰属すると言い切れない視線が、それらの記録から促され、目撃者の知覚に生まれることがある。それはハッブル宇宙望遠鏡が撮影した、みずがめ座の惑星状星雲NGC7293「神の目」が対象イメージに顕われるのではなくて、それが逆転し内在する不安のようなものでもある。
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