スケジュールを組むこともなくふらっと出ていく行為が旅だろうと考えると、車を同じように走らせることも旅ではあるが、駅で方向だけ決めバスや列車に乗り込むような不自由な移動のほうが「旅」の趣は大きい。そしていずれ歩くことが「旅」である。車は移動の手段であり、その所有がどこに位置づけられているかというモノが置かれる属性に依って、むしろ旅とは逆の、「元へ戻る」性格が強いかもしれない。タクシーやレンタカーは勿論別だけれども。
到着地点や目的を、温泉に入る、名所旧跡を辿るなどと予め決めて移動を繰り返すことも、旅には含まれるだろうが、本来的な「旅」と位置づける感覚は私には無い。予想できなかった光景を目の前にし、予想し得ない出来事に身を任せることを旅と考える。そもそも家族の住まう郷里を離れて一人暮らしを始めた十代の終わり頃から、移動に伴う仮住まいという感覚に絶えず「旅」が巣食うようであったし、数えれば学生の頃、都合五カ所を転々としている。ベルリンでは三カ所を移動し、所帯を持ってから四カ所。現在も浮浪の感覚は消えないから、いわば落ち着きのない「旅」そのものがこの身に巣食っているわけだ。
場所と環境に馴染み、定着の持続を欲した農耕の民の必然であることに似せて、近代以降、三世代で住まった大家族から巣立つ兄妹は、土地私有の自由を得て家を構え、それぞれの自立を目指し核家族の生活を始めることにも時代の必然はあったのかもしれない。そういう意味での定着への憧憬が、この身の時間の流れのどこかで幾度も剥離しており、様々な要素も重なり合って、漂流を標榜するような気分の増長を押し殺すことはむつかしい。
そういう意味で、手ぶらで旅をすること自体に、直感的に気が振れるような危うさを感じているので、カメラを持つのかもしれないが、これはつまり、旅の記録のためのカメラではなく、旅を、「今、此処」と立ち止まり、自身の肉体と精神を都度切断認識するためであるということだ。そうでもしないと、とりとめのない驚きと当惑にまみれた漂流の中から逃れ出ることができなくなる。