あれはまだ幼さの残る兄妹二人で行った旅行帰りだった混雑した列車の中、座席の間に立ちながら揺れる車両にいて、座席に座って駅弁を喰らう楽しそうな家族を見下ろし、賢明に疲労を我慢する妹を後ろに立たせ(あるいは通路に座らせたかもしれない)、立場というものはこういうものだと立ったまま歯を食いしばるように憮然と考えていた。
時間は過ぎて、混雑の中通路で眠ることも平気になり、列車ダイヤの編成も変わり、一昔前の混雑は、年末年始などのピーク時に限られるようになり、立場の違いに感想を漏らす記憶も遠のいた頃、どこかの書物の中に、列車の中での同じ状況が示されて、それが立場の違いというものだと語られるのを読み、この時は立場というものは、其処と此処というだけのことだと、むしろ「立場」という観念を捨てるようにしていた。
昨今、立場と云う責任を追求するような報道が多くなされ、その立場であればこうすべきだと、別の立場から指摘することを耳にし目にすると、差別的な立場というものが浮かび上がり、どの立場がどうだというのだと、幼い頃憮然とした気分と正反対の認識が明確になった。
立場と云うのは他者性であって、本来的に相互理解の共有部分を持たないから、其処と此処という立場の説明が平等に交換されなければ、其処の立場という此処と、此処の立場という其処の、感想の慣習的なヒエラルキーに取り込まれ、どちらかがどちらかに騙されてしまうという罠がある。
特に強く思うのは、垂れ流し状態で情報放出される各報道メディアの立場というものが、最近あまりに堪え性なく無責任であり、拙くもあり、自らのスタンスの自省認識の更新を踏まえて、他者性を帯びた立場を追求すべきと痛切に感じる。と同時に、不特定多数に「みなさんいかがおすごしですか」と曖昧に向ける語り口調の記述の、自身の立場、状況の説明に終始する、相手に歩み寄る口語文体は、立場の過剰説明であり、時として「ねっ」と強要となる不気味さがあり、吐き気と寒気がする。これは、大衆を相手にするタレント商品としてのテンプレートであるかもしれないが、自分の立場が「見られている」ことの過剰な意識で構築される人格というものを、理想的な人間と勘違いしている。最近の笑いが、時々「ええじゃないか」節に聞こえる。
さてこちらの立場とはと、私は偏屈に考え過ぎて時間ばかり過ぎた感はあるが。相手の立場をどうこう思うほど余裕もないし、そんな時間は残されていない。とこの記述は矛盾して終わるが、これも感想というものだ。
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