混濁覚醒

 嗅覚や聴覚も個体差があり感度が鋭敏に突出する人もいるらしい。それが神経に障って平凡な日々が蝕まれると感じる人も多い。あるいはその鋭敏な味覚を武器に料理を異端審問する眼差しがうまれたりもするが、往々にしてそうした固有な突出は排他的である。聴覚が勝れば音響的な創作にベクトルが向くかと問えば、嵐の音に音階を与える絶対音感が養われていても、ゼロから創作する土台は別のものだろう。身につけた素養を引き下げるかの一般的なウイルスのような近代の名残りとも云える誤解が続いているのは、ある達観とか、精神の静まり、余分を省いた意識の高まりにおいて、なにがしらの精神と身体の融和が祈りのように、奇跡のように表象されるという観念で、それが麻薬的な錯乱や、突出した知覚に身体が応じて反応する行為の技術と錯覚される。その勘違いした観念に不足しているのは個と集団が混じり合う社会性という混濁(複雑)であるとすると、朝になり昨日までを刷新する目覚めるような覚醒は、その混濁において成立し、他者性を含んで揺れる知覚を制御し物事を成立させようとする。自身の手首にどれほどの他者性を孕ませるかが、その手首の動きのもたらす出来事の世界に対する機能性を決定することになる。
 
 違和と差異と彼岸の向こう側である他者性を混濁に踏まえる、というより、それを前提とした知覚制御は、人間である限り観念の域を出ないかもしれないが、混濁への寛容、世界への許しのようなものが、犯し犯される人間性を未知の覚醒へ促すのだろう。固有の誇りから離れ混濁の中の日々の蓄積と経験を新たな素養として世界を再びまた探り出す悉は、計り知れない表情を得る筈だ。混濁を精査し個体生理で差別し嫌悪するかの排他性は、世界を許すことが出来ずに、結局贖罪のようなものに縛られる。