交換のスケール

 ひとしきり没頭した工作を終えたつもりはないが、冬の狭いリビングで採集物を素材として両手の中で転がした形のほとんどがほんの小さなものだった。展開の都合は取りかかりの安易さに依存したし、せいぜい一日か二日で転がし終えて手を引く、関わりの深さの程度を決めていたので、そうしたトータルな姿勢が、言わば事後的に出来上がる形のスケールを決定したといえる。手狭なリビングへ仮設置して眺めた時には、現代的な住空間にとって無理のないものだったが、展示空間である倉庫に併置すると、やはり倉庫という空間に照応させた形ではないことは明白であり、この特殊な展示空間の為の作品スケールというのは別に在るとも言える。但しどうだろう、特殊な空間を想定した展開は、この冬の反復した取り組みが等価投影されるわけではない。イニシアティブは無論送り手にあるべきではある。だが、固有モデルを展開する空間のボリュームとしては魅力的だ。ひとつの特殊な空間への全的な関わりを想定するというのは、全く別のスタンスで取り組まれるものだ。空間自体を交換されるものとする後者の想定は、それを可能とする別のシステム(無関係な利害構造)の介入が必要となる。

 実感としては、表出空間を無視して開始された個人的な頓着の集積は、時に、様々な都合や体裁を踏み越えて、不適合な空間の性格を陵辱するかに変質させることもある。加えて、この違和感の学習によって、別の何か(発想)がこちらに生まれたようだ。

 小布施、松代の美術館、レストランカフェ、酒蔵などで展開継続してきたトポスプロジェクトは、作り手が場所に感応する(あるいはさせる)アプローチから立ち上げたものだが、FFS_倉庫ギャラリーは、固有のトポスの文脈が希薄であり、その機能は渓谷脇の空っぽの倉庫であるということでしかない。つまり今後場所性を与える(命名する)立場にあるので、場所自体をゼロから構築する必要があり、昨年暮れに試験的に行ったDIIM2014インスタレーションミーティングでも、場所の磁性に照応するというより、状況に応じる(場所を理解する)スタンスが各参画者にみられた。ある意味では、トポスプロジェクトと併行して倉庫という「空っぽであること」を維持した「多目的」な空間として維持することで、その逆説としてトポスが浮かび上がるということもあるだろう。

 FFSは、フレーム工房と倉庫ギャラリーと共有ラウンジの三つのブースが併置されているので、共有スペースの機能性(ミニギャラリー、ショップ、カフェ等)を高めることで、この併置が更に有効に働くだろう。

 マルクス(1818-1883)はハイネ(1797-1858)と1843年から2年程亡命先のパリで暮らして影響を与え合い、ハイネが「流刑の神々」(1853)を構想し、マルクスは「共産党宣言」(1848)を同時期に刊行、「流刑地の神々」から柳田国男が学び、山人の恊働自助を持続的に「飢饉の系」から構想した「柳田の可能性の中心」を捉えた、秋の終わりに捲っていた柄谷の「遊動論」の再読をはじめて、現在の自身の姿勢と重なるものが多いと再認識する。

 FFSが一方的ではなく、影響を与え合い互恵的創造的な場所でありつづけるには努力が必要。