枝間考
採集した枝からはじまっているようだったが、顧みれば半世紀に渡った習癖のようなものとも考えられた。拾ってきたものをどうするでもなく目の前に置くこと自体が、こちらにとっての世界であり、そのこちら側と対象との折り合いのような思考を続けてきたことになる。故に世界を道具としてこちら側の恣意に従わせる構造を嫌悪した。だからといって全てを受け止めることも出来ようがないと判ってはじめたことだった。石でも水でもよかったが経験的にあるいは偶然の出合頭が枝となったにすぎないが、途中世界をこちら側から仮設し尽くす妄想(世界を道具として)にも囚われた。枝の奔放は出鱈目さにあり、あるいは空を切り裂く線の自然であるから、それ自体をどうすることでもない。森の樹木で風に揺れ葉を広げるままの姿態でいいのであって、だからこの枝間考は、それを眺めているこちらという態度がかたちに成っているということになる。 選別の意味や意識移入などない単に拾ってきた樹木の欠片を無垢に眺めることから展開ははじまり、その対象を「置く」為の構造をこしらえる。ただそれだけのことにすぎない。こしらえた構造が走り過ぎれば、捕囚の恣意が浅ましく突出し、枝という世界のかたちは、隷属された下位のものと姿を変える。逆に獰猛な世界自体である枝振りのようなものを見上げて、こちらが従うかたちに納めれば、この中間で維持する思想は成立しない。 最終的な併置をめぐって鉄やセメントなどの素材併置も、空間に於いては必要となるかもしれないが、それは極力もうひとつ外側の世界に位置するようにすべきだとした。 |