理論

 25年前に状況論の意訳として平面へ移行し、主に重力を巡って炭化ケイ素で展開したが、今思えば霧を霧で描くような飛躍の作業に(まるで泥を捏ねるような絵具に塗れて描くことに浸かるような)、むしろ惹き込まれていた。レンズが切り取った静止画像の限定的なイメージ(現実性)には、一枚の平面性において、物質的な世界(窓)への彼岸が広がる。口実の軸を普遍世界の現象からの抽出という、言語的な抽象からやや離れ、身辺に長く降り積もった状況を振り返って、手探りの(ある意味では稚拙で幼稚な)「採集」行為そのものへ思考を与えることで、かなり自由になる実感がある。

 行為性としての制作作業が、混乱を呼び込む「創作」ではなく、単なる必要作業とだけになって、具現化への思索自体は高度化していく。

 対象(世界)の認識および検証の正当な立ち位置として「拒絶」を考え、押し避けた外側での作業としての思考として、「もののあらわれ」を、包有せずに併置することは、レンズの機能から促された。視点という座標を維持させる手法としての拒絶は、測られた距離を持つことになり、併置によって反射した「拒絶の距離」は、座標精度の検証のみを活性させる。

 「拒絶」には、拒絶反応、不裁可、不成立、不認可、拒否、意気阻喪、意気消沈、拒否、肘鉄、侮蔑、蔑ろ、侮り、軽視、蔑視、恥辱、侮辱、排斥、否決、排除、辞退、不承知、不承諾、不承、拒否、謝絶などの同義概念があるが、どれもこの場合の意味合いとはかけ離れている。視点座標基準の都合に応じて変位させる傲慢な対象享受を切断することであり、例えば、原爆と広島を併置する時、併置による世界の被爆と崩壊と修復を、いずれの併置対象も拒絶した視座で思考することとなる。飛躍すれば「愛」とか「共感」というものも、拒絶座標の維持でこそ成立するのではないか。

 震災以降、分かち合う「共感」「絆」が使い回され、「もてなし」という対象に視座を憑依させる手法などが、文化的であり、親和性をもった新しい倫理的な人間性であるというのは、気持ちが悪いし、間違っている。人間の個別性は、決して接続できないユニークを、単に類型としているだけにすぎない。