注視

を促すのは殺戮という図式の、物語やソフト開発(ゲーム)が当前となっているビジネスモデルが乱立する異常な現在は、よく見れば世界は世紀が変わっても殺戮等絶えているわけではないし、紛争の戦火は現在も色濃く世界地図を埋めているから、開発は無情な世界のトレースなのだといってしまうこともできる。子供たちが殺戮のシミュレートをする、言わば訓練所を与えて生活を保障された作り手たちには、死ぬ迄に贖罪を果たす意識が芽生えるのだろうか?娯楽、R指定に忍ぶ嘔吐感というものを、思念に置き変えねばいけないかもしれない。
10 MINUTES OLDER の記者会見の席が明快に示したのは、監督という人間は、そもそも孤立しているということであり、この孤立感は、ヨーロッパという地面に引かれた国境のある環境での人間性を憶いださせた。
10分という自由を手にして、五月蝿いプロデューサーや採算を考慮しない、観念的な創作のベーシックなスタンスに立った監督は、本来的な作り手に戻り固有に取り組んだわけだが、皆が集まり、祝祭のムードの中で、記者達のデタラメな質問に答える、固有を突き詰めるといったことは、例えばこの国では、空気を読めない者と笑われるかもしれない。このプロジェクト自体が空気等読まないというコンセプトと考えるべきだ。どちらかというと、殺伐とした孤立感の充ちた疑心暗鬼の空間こそ、何かが生み出される人間的なものであると思われる。
欧州が力や立場の差異の世界であり、アメリカは人口とそれに対する情報という意味での経済イデオローグに支配された大衆という同一化を求めて成長し、それが現在破綻している。ヨーロッパのTV番組には娯楽が少なく、対論の番組が多いという事も、他者性に対する緊張感が、日常的にあるということだ。
Claire Denis作品で、インタビューに答えるJean-Luc Nancy(1940~)の、共同体における同一化の不幸と他者の異質を認める幸せ、というくだりは、現在も延々と悩ませている他者の権利、内部と外部、などといった対処に苦慮する未解決の深淵(共同体とは何か)を日々覗き込んでいる者の贖罪の意識がうかがえた。
この国の、皆が同じ欲望を抱いているという幻想が綻ぶ時、それは最も近しい家族からはじまるという悲劇性を特徴として持つ。人間は本質的には何も共有できないのだということを前提にすべき時にきている。すると娯楽といった観念も随分変わる。つまり、ひとつの固有に一体何が出来るのかということになる。そういった流れに従っているというよりも、実直に歩むことで、こちらの振る舞いが、ますます他者性を帯びてくる。