1984年に、「こことそこ」というものを書いた。
個体の感覚器官の届く範囲と、その外部と境界に関する漠然とした幻影を、理論的に纏めることが出来ず、中途から幻想小説風に誤摩化したエッセイだが、指導教授から、筆勢が良いと見当違いのような評価を頂き、口を開けたまま、その時は首を傾げ言葉を失っていた。
選んだ原稿用紙に、選んだ万年筆で清書した20枚程度のものだったが、今となって考えると、なかなか本質的な指摘だったと頷く事ができる。
エッセイにおける筆勢という表象は、つまりここでもそこでもない現れで、言説の示す事の、見失いがちな可能性のひとつであり、送り手自体予期しない、個体表情が明晰に顕われる、「迂闊」な姿勢、態度となる。
同じ頃、Saitoという友人が、冷笑的に皮肉が絶えず挟まれただろうこちらのさまざまな言葉を日々受け取ってくれていたが、ある日、お前は首を突き出して筆を持って絵を描いている時が、一番良い表情をしていると指摘した。この時も、何を言っているのか考えず、お前は黙っていろということか、少々五月蝿いのかなと、自身の未熟な観念の放出を押さえようとはしたが、これも、筆勢の指摘と似ている。
つまり、往々にして本質的な自身に気づく(目撃する)のは他者であり、その眺めは、本人の気づかない背中の色のような種類であり、おそらく内省的な過酷な時間を長く過ごしても、見えないモノは最後まで見えない。
今となって其処に見えるのは、他者性としての自己であるかもしれない。つまり自明であった筈の此処(私はこうである)を諦め、放棄し、可能性としての其処へ辛うじて繋ぎ止められることだけで充分とすると、此処を限定させる枷がなくなり、自由にはなるのだが、実体のない霊のような心細さが膨れる。これからはこの侘しさとの闘いなのかもしれない。
そう考えを繋げると、やはりこちらを迂闊に曝け出す筆よりも、カメラが最適なのだとわかる。
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