奥の細道

を子規が辿ったように、こちらもとぼんやり考えたのは、北九州小倉ののビジネスホテルの中だった。まさか、芭蕉の足取りをそのまま追うつもりはなかったが、移動に伴う出会いによって自らを率直に反応させるというのは、諸処の人の事情を鑑みるとなかなか潔いと思えた。
旅の観光という目もあり、見知らぬ土地を歩く事を経験に照らし合わせ符号を探すなどして、新たな記憶の組み合わせに落とす目もあり、ただ新鮮さを受け止める目もあるが、道を行く、時空を訪ねるという歩行を、当惑という他者の目撃の手法に簡潔させ、カメラが移動する為だけに身体を機能させる。よたよたとはじめていた。
同時に、時空に対する当惑を、場所における百年の文脈の認識を併せ持つようにすることで、この眺めの移動に、余計なモノを呼び込まない結界となるのではと、見える場所の見えない過去を当惑の理由にすり替え、逆説的に対峙のスタンスの情緒的、気象学的気分の変化の抑制へ作用させる鍛錬を反復に含ませることにした。
くよくよと振り返りつつ行う反復は、それ自体が景色を求めるというより、計画の余白に顕われる自身の立ち位置を研磨するように磨きだす修練じみた。骨に染み付いた嫌らしい仕草を切り捨てるには、修練で知った水平と垂直のみへの信仰に似た依存で済むかもしれないと思い始めたが、この時、丸いレンズと四角い受像イメージとの機能的な理論のズレが、この十字の戒めに逆らったものであるため、ふたたび頭を抱えるのだった。