思えば

1984年に、韓国の3都市(釜山、慶州、ソウル)を回ってからヨーロッパ(アテネ、ベネチア、ミラノ、ウイィーン、ジュネーブ、ミュンヘン、ケルン、アムステルダム、バルセロナ、マドリッド、パリ、ロンドン)を1ヶ月かけて急ぎ足で巡る大学の研修旅行の際に、ドーモなどを収めるには35mmがいいだろうと一眼レフ(ペンタックス)を買った。それまでの作品撮影は全て友人のSuetsuguに任せきりだった。1987年の渡独には、当時開発が急ピッチで行われていたハンディカムと小型液晶モニターを持ち込み、写真よりも映像を撮影したが、80年代後半は一眼レフを旅先に持ち込んで、撮影写真が作品の一部を成す制作発表をしている。1990年に入って、友人のKurosawaから、所帯を持った祝いに貰った125ccのカワサキオフロードバイクを乗り回してから、彼に黙って売り払い、その金で中古のゼンザブロニカSQ6x6を手に入れ、中型の描写力に傾倒し現在まで続く歩行撮影をはじめた。機種はそのうちペンタックス67に落ち着いたけれども、90年代の撮影機の開発に煽られて、様々な受像機とレンズを使い、膨大なポジフィルムを一度映像にコンバートしている。
すべてフィルムカメラであったから、世紀が変わって、デジタルが台頭した当時は、所詮デジタルはフィルムの解像度にはかなわないと、懐疑的な姿勢は変わらず、フィルム会社が閉鎖に追い込まれても、マミヤ7を肩にぶらさげ、ニコンのマニュアル機を新規購入している。
フィルムの現像からプリントという、出来上がってからはじめて撮影時の結果を知る「光景の時差」を抱える写真の制作行程は、時に錬金的な手法の介在が可能であったから、レンズと受像機の性能ばかりでは片付けない語り口の横行にも頷いて、そうした仕草をトータルに纏うシルバープリントの純血を信じる時もあった。
時差が無いとは一体どういうことだ、首を傾げながら廉価な初期型小型デジカメLUMIXを試すとプロダクトとしては最悪だった。が、データの扱い方は勿論、撮影態度までがまるで変わり、幾つもの神話を難なく破壊するデジタル撮影の、「写真」というコンテクストへの切断力には大いに惹かれたのだった。各メディアの、「写真」を扱う環境もデジタルへ大きく変革された現在、デジタルカメラは平均的な記録受像器となったが、デジタルによってむしろ「写真」の根本的な性格が露になり、目の前が簡単に而も正確に記録されてしまうという、カメラオブスキュラ出現時の、「当惑」が再来しているのだと考えるに至る。
デジタル撮影のデータと身体の「無関係」さというより、近視眼的に詰め寄っても肉体的には理解できない仕組み(0,1)の彼岸が、逆にこちら側の岸である「此岸」として新しい歩行を与えてくれている実感があり、できるだけ錬金術を挟まぬ態度で、月周回衛星かぐやの姿勢を師と仰ぐ撮影歩行をひとつの思想と捉えはじめた。