わかるには、判る、解るなどあり、わかるとは理解とされるが、私は理解とは何かいまだにわらない。これも矛盾した意識だ。
職業柄、こちらの差し出したモノが「よくわからない」と困惑の表情で詰め寄られることが少なくないので、そんなことが度重なると、とてもよくわかる構造を改めてもてなすか、そうした問いを無視するかの二択しか選択枝がないので、私の場合、説明を控えるほうに回ってしまう。相手は「わかる必要などないのだ」と含み入れる場合はよいが、「どうしてわかりやすいものにしないのか」へ針が振れると、再提出を促されることになる。
共有・共感が前提となる例えば「愛の唄」のようなものに、こちらが関心があったとして、もてなしの構造で「愛の唄」を創り上げるというコト自体への興味が私にはないので、おそらく私のつくる「愛の唄」は、普遍性のある愛の唄でないもの(「愛」とは何か?)になってしまうだろう。
わかりやすいということと、明快であることは、似ているが全く違う現れであり、目の前に、異星人を目撃するようなものだ。どうしようもない異形をはっきりと見つめながら、全く理解できない。
だが、人も個体であるので、この明快さのトリックを本来的に持っており、言語の理解し合えるという幻想に酔うように生きているといえる。
恋は理解できないモノへの憧れでもあるかもしれない。理解したと錯覚した途端、恋の熱も冷めるのだろう。
日々日常の目の前の出来事を撮影記録し、記録した景色を再度確かめるということを続けていると、世界は、こちらの理解できないモノと解釈したほうがよろしいと思うようになった。思うようになったのか、そんな予感があって始めたコトなのかは、もはやどうでもよろしい。こちらの意識で勝手に組み立てた概念の伽藍に組み入れられる事柄であれば、「わかる」ともいえるが、ほとんどの光景は、個体の数十年の脳細胞の稚拙な構造には、入りきらない豊穣さに満ちており、ほぉと溜息をついて途方に暮れるしかない世界が明快に目の前に顕われている。
言葉を失うしかないのだが、この現象はヒトという個体にとって普遍性があると最近、そうした歩み寄りの観念の構築を愚鈍に行うしかない立場をあらためて思い知った。
私にとって成熟とは、決して今風の「もてなす」ことの成就ではない。「持て成す」ということは、例えば茶道の場合、様式にのっとって客人に茶をふるまう行為を示す。元来、茶を入れる所作に、生きていく目的や考え方、宗教、茶道具や茶室に置く美術品などが含まれ、逃げも隠れもできない狭い空間で、相手に対峙し自身の態度の提示の形態であったはずであり、緊迫した仕草であったはずだ。現代は、間違って使われている気配がある。
緊迫した対峙を示すことは、相手に対して、理解や共感を求めることと正反対の意味があり、つまり、私はこうであると示すことでしかない。
|