芳一
小泉八雲(1850-1904)が一夕散人の臥遊奇談(1782)から「怪談」へ引用する百年前の曽呂利物語(1663)では舞台は下関市赤間神社ではなく善光寺内の尼寺で芳一ではなくうん市という座頭であり、この江戸当時の引用先は南北朝時代の平家琵琶(一方流)演奏家の明石覚一(1229-1372)とされている。罪を洗い落とせると踏んだ善光寺というのが面白い。失明し琵琶法師となって物語を唄い始めたのは平安時代のようで、琵琶自体高価な代物であり各地を遍路する乞食のイメージは大きな誤解ともいえる。
遍歴の遊芸人である盲目の法師が仏の道を説き浄財を集めてくる「勧進聖」に属し仏の道を易しく説くために大和言葉でづづられ節をつけて歌うように語る「和讃」を唱えたり、勧進に使用する絵巻をもって、その由来を口上として述べたりして人々との結縁を求めていた「聖」と「芸能」の両極をスキルとしていたと推察すれば、言わば歩く図書館であり情報伝達それ自体であったから、鎖国ならぬ閉じた村々を遍歴する法師あるいは聖たちは無知蒙昧な村人たちに歓待された翌朝に身ぐるみ剥がされ池に棄てられたということを想像するのは難しくない。悪行を恊働した村人にしてみれば物持ちのよい異人など一晩で淘汰されたのかもしれないし、語り部の口から浮かび上がる様々な寓話に妬みが生じたこともあったかもしれない。耳無し芳一の寓話が様々に歪曲され捏造を加えられながら現代まで届いているのは、物語の骨格を成す構造の暗喩にある。目のみえない情報力のある聖の繊細で唯一のアンテナである耳が捥ぎ千切られるという絶望の構造自体、彼ら聖を殺め続けた人々の贖罪が貫かれている。故に芳一の幸せな後日談は後づけのものと考えてよろしいだろう。 排斥と略奪という行為における自省は例えば琵琶湖や琵琶沼、琵琶池などと地名にまんまと遺り、そうした命名に当事者の罪の意識を感じるけれども、盲いの聴く能力に優れた聖が発声の響きで言葉を広め倫理のニュアンス自体を村人に植え付けたのだという聖自らの基本に潜む悲劇性は見逃せない。言葉を朗々と伝達する見透しの立場に注がれる眼差しはここ一千年以上、子が親を殺すような凄惨な形態でぬるく繰り返されそこに派生する蔑みのあるいは妬みのあるいは羞恥と退化の言葉がいまだに地平を気味悪く温めている。 芳一の聖の悲劇性とこの国の「にほんご」という成立が矛盾なく重なり、同時に「にほんご」で自己同一性を確立できるわけがない機能疾患をおそらく絶える事の無い外のなにものかへの憑依によって切り抜けるしかなかったといえるかもしれない。海から戻った芳一の足首が泥土に埋まった「黒土」の幻視にも、こうした系譜を吸い込んで単に豊穣であるばかりでない景色の性質が見えてくる。 黥面あるいは5300年前のIcemanにもあった刺青と芳一の全身に書かれた般若心経を比較することで芳一寓話を記述される言葉の力の表象として短絡することはできる。言葉によって身を隠したという言語と人間の関係の倒錯(言葉のほうが上位に位置する)とみれば、記述されることの存在証明への逆転(記述しなければ存在を示すことができない)として今に引き受けることもできる。 芳一からの連想として皮膚に詩を書いて撮影したベルナール・フォコン(1950~)を憶いだし書棚を探すと、やはり商業写真家の饒舌な嫌らしさばかり目につき閉じて仕舞い、古井の聖を開く。 |