離れ

カメラで撮影をはじめた切っ掛けは多くの人間が同じであるように出来事を記録する必要性に駆られたからであり、30年も前のことだがカラーや白黒のフィルムを現像からラボに投げ込み出来上がったサービスサイズとかいう小さなものをアルバム化すればよかった。

勿論当時からカメラは市井の者からすれば高価なデバイスでありこれは今も商業的クオリティーとかを追えば変わらない。克明鮮明に記録する玄人が生業とするのも同じだが、こちらは中途から中型のものを抗鬱薬の代わりに散歩しながら撮影するといういたって個人的な理由で使いはじめ、繰り返す時間の中で絵画的とか映画のような印象的なシーンー出来事の記録をしたいとチャンスを狙うようなわけではなかったのでむしろ撮影は無頓着に行われたが現像は執拗に徹底して詳細を追うのだった。これは簡単な仕組みであってつまり撮影された画像を現像プリントの後ルーペで偏執的に眺める過程で、シャッターを押す時のこの肉体の知覚は何も見ていないに等しいとレンズの力に頭を下げた。写真はこちらにとって世界の現場検証によってもたらされた証拠のようなものとなった。

レンズは極めて人間的な道具であるにもかかわらずその能力は人間の直覚を遥かに凌駕する構造を持ち、それを感性で操れると錯覚する輩の処理を眺めて呆れることが少なくない。よってこちらの撮影の姿勢はおそらく希少なマイノリティーのそれであり、記録を目的とする写真画像利用者からすれば、わけのわからないことをしている風に眺められるらしい。昨今の携帯にバンドルされたカメラ機能でささやかな日常を簡単に記録する人間が増えたけれども、彼らは多分残された画像を変質的に眺めるということは少ないのではないか。つまりシャッターという肉体に接続された部分の運動の終わりで彼らの写真はその過去も未来も終わっている。

画像の隅々に注視を注ぐタイムトラベルのような検証行為の継続がもたらしたのは、過去のあの時がこうだったと今更に知ることではなく、みつめている写真世界は現実として今こうして広がるのだということが悦びとして再び肉体化する。