BABEL

BABEL / Alejandro González Iñárritu(1963~)
世界をあるがままにみつめるとその光景は全て儚く哀しい。誰も悪くないのだから。
人間の営みの全てには文脈があり、そのすべての文脈にはそもそも「悪意」は存在しない。構造の抱える問題で、時としてその錯綜が軋むだけなのだということ。この構造がBABELであると考えた。1963年生まれの監督の思想には、20世紀を短絡的に席巻した善と悪の二項対立の束縛を厳しく戒める新しい世紀の倫理が横たわっている。
物語は、いかにも現代的な環境で正当性を持ち得る人間が、ささやかな綻びを抱えているに過ぎない。地域や環境の差異を呑み込んだ上で、等しく併置し、どこにでもありそうな繋がりを示すだけで、こうも警鐘を鳴らす響きを持つのは、監督の眼差しの新しさなのであり、これは固有に自立したスタンスでありながら、Gus Van Sant、Li Yiyun、David Benioffなどと重なり、以降の世代を牽引する。
次世代にこの大きな「哀しみの現実」を遺すことには、大きな意味がある。
今後変わっていくだろう物語が顕われた時、そのきっかけはBABELだったということになる。
未熟で過剰な情報都市の象徴=Tokyoに棲む聾唖の娘、人殺しと背徳の覗きが等しいモロッコの貧しい兄弟、砂漠に放り出された幼い兄妹、Iñárrituは子供たち向かって頭を下げ、わたしにはこうすることしかできないと謝罪しながら、包み隠さずに世界を見せようとしている。

バベルの塔の記事は旧約聖書の「創世記」11章にあらわれる。位置的にはノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。そこで語られるのは以下のような物語である。
もともと人々は同じ1つの言葉を話していた。シンアルの野に集まった人々は、煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く塔をつくってシェム(ヘブライ語、慣習で名と訳されている。名誉・名声の意味も有る)を高く上げ、全地のおもてに散るのを免れようと考えた(偽典の「ヨベル書」によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた)。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった(『創世記』の記述には「塔が崩された」などとはまったく書かれていないことに注意)。「創世記」の著者は、バベルの塔の名前を「混乱」を意味する「バラル」と関係付けて話を締めくくっている。
原初史といわれ、史実とは考えられないアブラハム以前の創世記の物語の中で、バベルの塔の物語は世界にさまざまな言語が存在する理由を説明するための物語であると考えられている。と、同時に人々が「石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを」用いたという記述から、古代における技術革新について触れながらも、人間の技術の限界について語る意味があると考えられる。
ーwiki
日本語公式サイトレビューにてまともな感想を述べたのは、女優の鶴田真由のみ。