方法をめぐって


「方法」という言葉には、とりわけ注意深くあらねばならない。なぜなら、「方法」は、それが方法として在るところには、きまって存在しないからである。二流の精神が受け取り且つ応用するような方法は、すでに「方法」ではなく形骸にすぎない。「読む」ということは、いわば「方法」を読みとることだといってもよいほどである。
(中略)
小田切秀雄がかつて批判し、小田実がその後もっとも愚劣なかたちで批判した「内向の世代」は、あえていえば、こういう内向的条件だけを対象化しようとしたのであって、そのことが不毛なことは先験的に明らかだとしても、それに対置さるべきものはない。ただ「内向の世代」の文学を、”内側から”突きぬけるほかには。
(中略)
古井由吉はかつて大江氏のような都市インテリの自意識をカッコに入れて、いわば中世的な”私”の意識をめぐって、共同主観的な構造ー言語学・神話学・人類学的なーにいたろうとした。「内向の世代」の画期性はそこにあったが、それはあくまでも「私」の意識にとどまっている。中上氏はおそらくより内向的な作家として徹底し、あたかも”私”そのものが破壊されたかのような逆説的相貌をもってあらわれたのである。むろんこのような内的関係は、たんなる「対立」の外形によって隠されてしまっている。
私が明確にしたいと思うのは、さまざまな作品が相補的に助け合い戦後の文学を構成しているとか、すべてダメだという、いかがわしい共時性や党派性ではなく、それらの差異であり関係である。「差異」のみが歴史性の根拠である。

方法をめぐって/ 柄谷行人より抜粋