単純と複雑

単純を繰り返すとその反復の内で複雑が醗酵し蒙昧な難解の海に漂う。これが罠と知る。なるほど卓上に置いた枝花は単純ではなく複雑だからそこへの眺めはむしろ坦懐な単純へ向かおうとする。こちらのほうが健やかであるわけだ。年の瀬に一枚の葉を手にとりどうしようもない複雑を自身の内へ温めることはできないと諦めていた。目の前に置くだけでよい。この諦めは爽やかであって明るい。

好奇心ではなく検証の潔癖というどちらかというと埒も無い性のような気質に任せて「嘘」を「本当らしさ」に捏造する世代技術を今更にまともに確認してみようかと休日の一時その当事者意識の欠損した間違った媚薬を含むかに、リドリー・スコット(1937~)「プロメテウス」を観るがやはり得るものが無い。思った以上の不快が残った。前世紀末に養われた唯物的に圧倒すれば深淵が証されるという「嘘の罠」という錯覚の構造が浅薄な分業で複雑を装っているのは映画ばかりではない。寓話の起点、原理にあるべきなのは、時空への照応力だが、雛形の決断、類型的な印象の上書きというより同義反復的情動を殊更に美化強化する。ばかげている。