イメージ(視覚的像)は、非肉体的な構造(近代的ツール)の引き起こしたアクシデントとして、結果だけを人間の前に顕すから、結果をあらかじめ、恣意として動かす時、それは恣意と同時に用意された引き出しに仕舞われるしかない。
嚔で引き金が引かれた、不本意な発射という銃もあり、そこから始まった悲劇は、都度新鮮すぎるのであって、経験的倫理の内に説明することはできず、ただ引き起こされた環境のその後の描写という罪を意識で背負うことしかできない。
カメラも、見る事の装置という短絡よりも、銃の引き金と同様、偶発的なシャッターの瞬きによって、世界の現実併置が記録されてしまうのであって、それを意味深に、人間的な方向へ(これは絶えず過去へ向かう)ベクトルを与えることは間違っている。
ただし、言葉が物語によってしか、道具として生成成熟しないように、カメラという装置が残す写真というイメージも、夥しい量の果てに、洗練することもあるが、それは恐らくイメージの美的な洗練ではなく、人間の見るという能動的な欲望の眼差しが空間に充満するような、レンズと像の定着のクオリティーの洗練であろうし、それによって、「見えること」の肉体感覚も変化せざるを得ない。
写真はだから、匿名性というカメラの構造が、撮影者という恣意を打ち消す、原子爆弾のようであるべきなのかもしれない。そして近い将来、記録された画像から、考古学のような解読の技術が注がれることで、まるで琥珀と同質の鉱物の性格を新たに纏うだろう。
数百万画素とデバイスの開発を誇るデジタル画像が、進化すればするほど、これまで無頓着だったフィルムのクオリティーにようやく気づくという、変換(コンバート)の黎明期にいて、現象の世紀であった20世紀の、現在からみればささやかすぎるイメージの記録総量に、悔いる時がくる。
写真のルネサンスは、報道、ドキュメント、記録、広告、といったカテゴリーを一掃した、構造原理主義に似た形で訪れる筈であり、その時は、夥しい量のイメージをデジタルであれ、フィルムであれ、歴史化しソートし再解読する手立てが整ってからでないと始まらない。
だから、絶句する「写真」を事故として、瞬きしてしまったメラを持つ人間が、新しい倫理的な写真家となるのではないか。そしてこの場合の写真作品はアートとは無関係であり、むしろアートを切断し無効にてしまう力を帯びなければつまらない。
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