社会類型

Gemeinschaftとcommunityの個人的な響き方は空間を想起するので大きな差異がある。
地域コミュニティという共同体の括りが様々に解釈されているが、大きな誤解がそこにある。というのも無差別に多様多数が参加するフォーマットを広げると途端にそれがひとつの「仲間」「共同体」と理解され、マイノリティーという名の額縁に入れられることがあり、フォーマットが示す土台は共有地を巡る違和感の提示表出の支えにむしろ近いのに、そこに加担すること自体がひとつのイデオローグと片付けられる錯覚がそこにある。共有地を巡って属性者は切り詰められた固有を提示するしかないわけだから。

個別に自立し類型に対して怖れを持ち相対的な感想と違和感を背を伸ばして表明するという基本的な「個」というものが、社会類型で保障されているわけではない上、むしろ利益追求型集団より下位に蔑まされた経済成長経緯があり、いたって明快な個人はむしろ社会放棄されるような環境が標準と看做されている。

自由という概念が個と結びつく思想形成はだから現代社会でははなかなか簡単ではない。秀でた想像力のほとんどは契約の元に隷属化され、あるいは相対の内に希釈され、時には犯罪事例に並列させ抹消する悪意が働く。

もともと地に足で立ちつつ自在であるとは矛盾していると最近感じることがあり、つまり居を構えて営みの土台をスライドさせずに根を地に伸ばすように生を持続する人間のスタンスに落ち着いたせいもあるが、そこには逃避の自在が失せ降りつづく気象変化に寡黙に対応するような責任の積もりが時間とともに垂直に重くなる。

「分枝」というイコンで示したいと個人的に捉えたのは、空に切り絵のように広がる枝夫々の形、行方ということではなくて、その隙間、余白であり、交錯が繁ったとしても細分化しつつ必ず存在を継続する余白こそが、自在の証左空間であるということ。多種多様の枝という固有は伸びつつ枯れつつ折れつつその存在ゆえに余白を想像する存在として位置を占め、囲碁のような併置感で、後から伸びる枝はその存在に左右されて新たな自在をつくる。

事をみて、石をみて種類と謂れを判断する認識は、自在とは大きくかけ離れている。意味の形成すらはねかえすそのどうしようもない無関係性あるいは現実性に頭を突き出して感応する人間の姿そのものが自在の顕われであり、つまり逸脱し社会類型空間余白へと突き抜けるフォーマットを重なる誤解から都度丁寧に取り返さないとつまらない咀嚼の排泄物と成り果てる。