見知らぬ子の父となり

「胸に塗ったバターで生まれてしまったと聞いて育ちました」

吹き出してしまいそうなことを慎重に呟く下の弟は既に青年で兄とは似ていない。一番上の長女はサルのような大人の女性で馴れ馴れしいので閉口し、兄のほうは近くの大学で野球をやっている時に観た記憶すらあった。それじゃあと立ち去る三人に向かって寝たままの格好でお前だけ一人で来いと弟のほうに言うと、背を向けた兄は鼻を鳴らして長女とふたりさっさと出て行ったが、暫くしてドアから顔だけだして、オレもまたひとりで来るよと笑った。Tシャツの剥げかけたロゴにも見覚えがあった。こちらは頭を下げて一緒に住もうかと女々しいような弟のほうと手を握り合っていたのは、その後であったのか前であったのかわからない。

なぜ気にも留めず生きてきてしまったのか独り病室のような部屋の中に胡座をかいて考え込むうちに眠気が差しとろっと眠ればはっと目覚めすべてが夢の話であったことにようやく気づいた。朝から雨の音がして気温が下がり窓の向こうに洗い流された大気で発色を取り戻した林が弱く揺れている。思いがけない事実がすぐ傍にありながら気づかないことはあるものだが、無関係の文脈にどうして魂が注ぎ込まれ同調しあたかも欠損の真実にようやく辿り着いた心地を寄せることができるのか。夢とはいえ気味悪いというよりおそろしくなった。

この今がうねる糸束の結び目のような可能態として主体を離脱して観測される時はあり、夢はそのような浮遊の儚さの中で紡がれるとしても、数十年を堪えた心情も一瞬に糸の長さで蓄えられているのは、いつからか排泄と享受の割合が大きく入れ替わって只管受け止める時間を過ごしているせいか。

夢にでる子が幼子であるならまだしも、成人の30手前の大人となっているところが事実を飲み下すより一気に刻印を押されるような強さはあった。我が身を数えれば23,4の時の子となる。