知覚感応の拡張持続手法

高画質のデジカメ・モニターや足元に連結して並べるギターエフェクターなどいずれもみえなかったものがくっきりみえたり聴こえなかった音場音圧環境の経験のいわば知覚拡張するデバイス引率によるお遍路となるのが最近の青年らのごく当たり前な individual projectionの選択肢であるので、生まれる時代を間違えていたならば他の手法を選んでいるに違いない人々が等しくプログレスプロダクトデバイスをツールとした精神を養っていることに異論はないが、時々デバイス機能がそのまま自身の肉体であると勘違いをする輩もいる。

問題はそういった知覚拡張(よりよく感応する)の、今は死語となったか知らないがハイパーな表出もスクロール認識も実は既に知覚拡張の旬を過ぎて鈍化劣化に向かっているわけだから、プログレス進捗を待つ態度を維持するか、感応レヴェルの感度を持続的に保持する別のやり方が必要となる。

こうした知覚導入デバイスはしかし超現実へ向かっていると錯覚されるがそうではなくて、あるがままの世界をそのまま曇りなく観測する道具であって、醜悪なことが美麗に変換されるわけではないけれどもそういったニュアンスが開発側にもあり、そうしたニュアンスに縋る輩も多い。このニュアンスの錯覚によって逆説的に日常の事ごとへの軀ひとつでの歩み寄りが物足りないと感じるヒトの劣化もはじまっているようだ。

母親もウォシュレットでないと排泄できないヒトとなった。

こうした時代性の中、次の冬に向けての準備で薪を割っている若い夫婦に薪割り手伝いを来週の月曜日にと誘われたのが嬉しい。