エノンセ

FBで気づく事だが、多くの美術家たちのエノンセ(言表 / フーコー)の交錯総体としてのディスクールには、文学者らの審美的耽美的なそれと違って奔放な跳躍とよい意味でのジレンマが遺されていて時にそれは子供の落書きのようでもあり、言語的な掘り下げはなされていないにしろ第六感ならぬ別の感覚を導入しなければ推測できない地平がそれぞれの背後に広がっている。

言語を状況説明だけにしか使わないという態度もそこにあり、言語の彼方はやはり文学的地平での展開者が示す力には及ばないが、かれらの想像する形や出来事には新しい言語を創出させる力がある。しかし軀に手足があるように言語があるとしてその言葉はいかようにも使う事ができるから、せいぜい時には観念に呑み込まれて、手先と目玉の直角だけに頼る狼藉を戒めたいと願うのは皆が同じだろう。

ただ言語ではない表出を持ってその唯一性を信じる態度の持ち込む言葉にはある種独特の弁明じみた性質があり、その加減がよく判る立場として耳に痛く目に痛く自らにも痛みが走る。とはいっても、使っているはずの言葉のほとんどは単なる日常の話し言葉だから、巷を席巻する流行の言葉で上下左右の差異を含めて判り合うという錯覚が横行し、気をつけないといつのまにか観念を放棄し、それこそ指先だけで土を弄るような仕草しかできない輩となってしまい、これではなんだかヒトとはいえない。