哀れな環境

リビングにあるTVブラウン管(リッチで大きな大型液晶モニターでもいいが)で、垂れ流しの番組やDVDを眺めるしかない現代の人間はいいしれぬ哀しさを、娯楽享受と同時に纏っている。映画館の巨大スクリーンが、集客を目的とした巨額投資された大作を期限決めで映し出し、そこへ出かけ次々と眺めていることも同じ。ただ受け止めるしかないわけだ。
記憶との付き合い方をシステムとして環境化させること。
兎角、必要とされる映像は商品の購買を促進する目的のコマーシャルであり、公の場では、これ以外は皆無といっていい。
然し、パブリックな空間での、個別な記憶映像の普遍化は、何をもたらすだろうか?
システムへの個別参加(ソース提供)が可能であれば、詳細の調整を横に置いても、かなり多様な空間が出来上がる。
そういった意味での自立した記憶映像の空間の実現は、映像自体を捉え直すことにもなるだろう。
そのくらい創らせてよ。
VE_Piblicのメモとして。