重森弘淹(1926~1992)

ーもしそうだとすれば、カメラは眼以上に見るものとして、眼とはちがった見方をするものとして、人々は期待していたわけになるが、もちろん、当初はそのことに、人々は当惑もしたのであった。しかし、現実的にカメラは、視覚のうちに入らぬものを可視の世界に引き入れ、また純粋に見ることで、存在の純粋客観性に気づかせた。意味される以前の存在を発見したのである。そのことによってカメラというもうひとつのまなざしは、もともとのまなざしに、ひとつの衝撃を及ぼしたといえるだろう。
つまり<見る>ことが、肉眼に所与のものとしてだけ自覚されている間は、まだ<見る>ことの意味はそれほど明らかなものではなかった。平素、見て終わるだけのものが、写真となって見えるものとなったとき、言い換えれば見終われば消えて行く世界を、もう一度見ることによって、まなざしの対象化が可能だと発見したのである。このとき、見たものをもう一度見ることで、新しく見えるものを発見し、あらめてまなざしの重要さを、自覚したといえるだろう。カメラ・アイは人間のまなざしと主体的な関係を確立する契機を発見したということができる。ー
物質の眼のリアリティー4/(1977脱稿)Koen Shigemori 重森弘淹(1926~1992)より抜粋