その光景が顕われる条件を検証すると、どうやらその光景に至った物語というより、経緯が必要であり、それはごくありふれた状態の連鎖でなければ、例えばコップの水は減ったまま、そこに置かれていないということになる。配置への道筋を組み立てるには、場所が先にあるべきではない場合もある。光景の時間も、朝であるか、昼であるか、夕方であるか、夜であるかを、光景の質に問うことにすると、その光景の眺めの時間軸と眺めの主の享受の姿勢も仮設しなければいけない。
家族が朝の身支度を済ませ、自宅を出払った後の食卓の片付けが、こちらに任されたまま放置され、夜通しの仕事の縁でそれを眺める時があって、食卓の、食べ残された朝食やミルクが残ったグラス、卓上にこぼれたパン屑、水滴などに、朝の家族夫々の慌てた仕草が残っていて、苦笑しながら片付けるのだが、では、こうした状態を仕組むとなると、家族ひとりひとりの目覚めから行動を追って、仕草に至った経緯を重ねないと、グラスにミルクは残らないし、パン屑に、意識が乗り移り、心のトラウマを訴える暗号のような不要な意味を持つこともある。
唐突に、配置によって状況を顕すことは簡単だが、その状況が光景としての意味を持つ事が肝心で、例えば、青年の頃幾度か川の流れの中に椅子を置くことを試したが、椅子は部屋から運んだままであり、いかように置いてみても、川の流れという環境に逆らい続ける存在でしかなかったが、その椅子を引きずりながら流れの中を歩む人間が顕われると、川はトータルにその動きを含み、光景の質が変化したことがある。それを切っ掛けに川や森にでかけ、配置を撮影する試みを繰り返していた時、ヤマシタという男が川の中に落ちてあった石を選びながら、自身の頭に乗せて、落とさないように足下を身体で探るように歩む行為を行い、それを記録したが、それも、石と人間と川が状況をひとつにまとめあげて、なぜかリリックな風情を醸しながら、川の音や辺りの反響が、妙に冴え渡って聴こえたものだ。ヤマシタは以降、頭石というパフォーマンスに切り詰めて、こちらとユニットを組み幾度かコラボレーションすることになったが、今でも印象的な光景として残っている。
最近、遅々と繰り返しているエスキスには、必ずテーブルが片隅に在り、置かれている場所の想定は、森か湖か草原の手前、雨上がり若しくは小雨が降っている朝で、テーブルの上には、朝方まで続けた宴会の残骸が残り、倒れたワイン瓶には、液体が残っていて、チーズがこびり付いたままのナイフや、吸い殻の溢れた皿がある。脇には焚き火の跡があり、小雨のなか燻って、弱い煙の筋を立ち上げ、だが、人気は無い。(靴下の脱げかかった足首があるというエスキスもあったが)このひとつの光景の為に準備すべきことはまだ多い。おそらく樹々の中であるという状況は、配置されるモノが際立つ為に用意されている。小雨は状態の経緯の時間を示す。人気が無いというのは、宴の参加者の肉体は酔いつぶれてどこかに倒れているということも考えられ、これが夕方だと、それまで放置され片付けられていない切迫感が光に顕われ、光景に事件性を付与してしまう。
テーブルの上の生ハムや野菜や肉や魚の残滓自体が、参加者の性別年齢、生活者の環境を意味するので、克明すぎては余計になる。
と、ようやくここで、テーブルのプロダクトの構造計画に踏み切れるわけだ。
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