目蓋を開けると瞳は光を感応するから、闇の中で目蓋を広げても何も受け止めることはできない。これは瞳に光が宿っていることを意味しない。つまり目の前がこちらよりまず先に在る。目の前に遅延して感応がはじまる。こうした記述も同じであるから、記述の手前に、言葉などこちらに宿っていない。記述によって顕われる形が、様々を遅延して呼び込み、連鎖を生むにすぎないから、記述をその手前で悩むというのは走らないランナーということになる。現在を開くのはだから、とりとめもない顕われの無制限な許可と遅延感応の学習によって形作られる「わけのわからない今」ということしかできない。
おかしなもので、こうした「わけのわからない」今が堆積して「今」が変容するけれども、いつになっても変わらない「今」が顔を出して、それは美しもあり、同時に醜くもあり、間違っていながら正当であるものだ。
砂漠など縁もない場所で、流砂を想うようなことが、果たして有効かどうか迷うのが、未熟であるとすると、迷わず想いを念いに投げ出すことが成熟だと、わたしはかつて、おかしな決定をしたものだ。
緩慢に色あせ埃にまみれた「(岸辺の)アルバム」を眺め、色褪せの退化とシンクロした過去を憶う時代ではなくなり、緻密な歴史の学習をするように、様々なメディアで時間を遡り、自身に関する克明な時間と空間を取り戻すことができるようになったこの時代の環境によって、おそらく過去は、情動的な装いをやめて、現在を感応レヴェルで刺激する。
どうやら、闇に取り込まれる日が近づいている気配が日に日に増すので、光自体の強度という光景に対する、こちら側の睨みの強化学習を意識的に戒めて行う必要が濃厚になってきたようだ。