Luxor Beyond(2002)の放下へ、気楽にあっさり眺め戻ることは度々あったが、冬にかけてあの時のquotationを解析する時間を得ようとしているのは、planの示したことが、「みつめ」と「場所」の準備でもあったと、認識を新たにすることになったからで、これは、数日前の鳥瞰という何気ない付与が切っ掛けとなった。
抽象は案外モノにまっすぐに繋がるものだ。私の場合、挙げ句唯物に短絡した経緯がある。その短絡を狂うように生きる立場などはじまりから無かった。泥いじりのような快楽に耽る位相を探そうという自覚が遅く訪れたのは幸不幸の問題ではない。更に加えて、きっと捏造されているに違いないイメージの再現という手法にも、支える行為に埋没没頭するしかなく、結局こちらが全的に投影されてしまうので、プレイメージの計画という処で、寸止めするように、静止する必要があった。仮の土台がバーチュアルであっても、ある種の具体性を引きずった(微細な、どうでもいいような状態)目の前の光景のヨウナ状態へ手がかりを探したのは、つまりそうした探索の、コンセプチュアルな正当性(情動も抑制も含まれた)の王道を学習する為であったと、今になっては思われる。そして、その成果は、撮影のアプリオリな構築手法である態度の切断に近い抑制の仕方の確認と言っていい。
例えば撮影機器(カメラ等)の原理的な仕組みには、時空に沿って依存すればいい。光と状態の位置を探す反復を作法として磨くために、手応えを得ることを目的としたロケハンを繰り返すという間違いを予め切り捨てなければいけなかった。現場特有相応の快楽で決定する位置などは、時として曖昧に涙で霞むこともあり、それに酔うと無意味で長大な時間を背負うことになる。且つ、スナップなどで得る、瞬間的に訪れる偶然的な展きを、受け止める余裕がないので外す。手を触れずともうねるようにうまれる差異に溢れた無限の「みつめ」から、ひとつを決定する。決定が思弁的にならぬよう、訓練された「みつめ」が、決定に率直に見いだされる余裕は加えたい。
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