middle view
人間のイコンは絵画・写真を問わず性別・年齢を問わず被写体が如何様であれ湖面に移った自身を眺めるナルシスがそのイコンを眺める目を横切る。あるいは「のようなもの」という類的な鼓舞が魂に宿るともいえる。人間という重なりが大いに横たわる中でみつめることがはじまるといっていい。 建造物や自然の山々や固有の出来事や偶然の瞬間という人間にとって説明的で恣意的なビジョンは目的が時に隠され時に露骨となってもその描写は美的だと感じる場合があったとしても善し悪しが分かれる場合であっても結局用意されたファイル綴じのような認識への導入剤のような役割をする。対象がそれらの中間といったらいいのかわからないが、憮然としたありのままである時、つまり名指しのできない世界そのものでしかない場合のイコンー画像ー絵画というものの行方は、人間にどのように影響するのか。いわばこれが私の長い年月の意識の引き寄せられ方であったのかもしれない。 前世紀の終焉時に辿り着いた思念は遠い過去のルクソールを夢想するような「彼方」というひとつの観念だったが、その具現を子供のような工作でルクソールの輪郭を指で辿るようなことはできなかったので、彼方を示す光景とはと考えるでも無く探索していた。否、最初に彼方が観念に現れたのではなく累々と撮影して「しまった」光景の画像を探るうちに、言いようの無い捉えようの無い「彼方」が剥き出しとなったー中間の光景ーを見いだして「しまった」ということだったのだろう。散乱と併置に蝕まれたある種無惨な世界である一方で清明で突き抜けて明瞭であり無関係を誇るその世界そのものを然し人間の手で記憶化させるデバイスで任意に切り取るというあからさまに浅ましい無邪気を世界と等価に行為するのはむつかしいと悟るのは、学生の頃指導教諭からいきなり営みとして芸術は成立しないからやめたほうがよいと適切な言葉を頂いたことを理解することと似たレヴェルだったといえる。 どこにも行き着かない機能しないかもしれないあまりに「そのまま」でしかない世界の獲得になぜこれほど惹かれるのか。獲得といったらおかしい。手には入れることはできない。そのひび割れも崩壊も散乱も腐敗もすべて非人間的な運動であるのがどうしてこうも愛おしい。 |