剥き出しの充溢の

この時期の背を丸め延々と一年を振り返る数字を扱う時間の沈殿のような愚鈍さに躯も痺れる風に慣れてしまうので瞼を押さえて外に出ると東京湾の空っ風だった前年と違って丁度雨が降ったこともあり徹夜明けの水商売の女性の化粧のように雪は溶け荒々しく姿を露呈した樹木がこの辺り特有の霧にまみれて黒々と顳顬あたりから後頭部へ突き抜ける。恍けた頭を洗浄するような効果がある。

天体望遠鏡を調べて天窓から天体やら銀河をデジタルで撮影してみるか。半年先をぼんやり考えてから単焦点を筐体から外し毛嫌いしていたズームレンズを望遠側に回しきり少々甘くなるが目一杯絞り込んでデスクでは時折双眼鏡で鳥獣を追っていたことも理由ではあったがジッツォに固めてシャッターを押し、遠距離の大気の圧縮を行うことをはじめた。レンズの仕組みが変わると画像にその違いが現れて物事の世界自体の捉えも変異するのがしきりに面白い。

グリップが格段に安定したアスファルトの路面がところどころようやく剥き出しとなり助手席にカメラを置いて湖まで走りまるで下着を脱いで湯気の出る秘部を晒すかのなんだかいささか照れくさいような光景に向けて手持ちで撮影をする。帰り道間近の山の形が南北ではなく南西から北東に斜めに並ぶ列山の一部であるから洛陽の角度の地理的な形状から来る気温の変化がこの濃霧を生むかと判ったような気持ちになり、夕陽に背を向けて手のひらに金魚を遊ばせる男の姿が意味もなく西日の中続石から五百羅漢へと歩いた遠野の里と共に浮かんだ。

標高千メートルでも真昼には南向きの窓へつまり自らの姿勢の向きへ真直ぐに日差しが平等に届く恩恵を呑気に享受するだけだが、朝ぼらけと日暮れこの惑星の裏側に太陽が回りつつある翳りの刻に、むしろ鬱蒼とした樹々の剥き出しがそのディティールを鮮明にさせるので時を選んで歩くようになる。自治体がこしらえた道脇の灯りに透かしの鋳物で示されてもいるこの地域のシンボルの天狗を仰ぎ見て、いつからであるのかは知らないが修験者や山伏らの巡る森だったに違いないし、天狗とは山神であると同時にアウトサイダー、異系異人、オスを象徴するけれどもあれはあれで実は両性具有であったとして柔軟に飛翔する躯を浮かべるとひどくエロティックなモノを眺める気分がふくらみ一度思わず森の道で吹き出した。冬眠から蠢きはじめる獣の血流のような微動の気配も加わってこの時期の齎しというものがあるのだと気づく。