反動は反射か
友人のルサンチマンを憶ったときこれも所謂扁桃体の暴走かしらと機能異常を考える姿勢がつまらないんだよ。手前で恥じろよと車を走らせた。 厭世を被せたシニックな表情の過去のあれこれの自分がしがない顔と固有名に属性を垂らして、あの時はマルクスアウレリウスをあの時はルートヴィヒヨーゼフヨーハンウィトゲンシュタインを隣に座らせたつもりになって認識の軸をそういった歪んだ傾向にまんまと座って股の中におったてて大抵はそんな威勢でよかったがそういう傾向の姿勢自体に違和がなかったわけではなかった。 顕われをそれはよいですねと受け止める文化の無い国に育ったのだから呪いが育まれる所以はある。批判と非難の違いの判らない村の中で、どうこういってもはじまらないと娯楽に徹した漱石の反復感を誰もが背負ってこれも同様に構造としての反動をそこに埋め込む仕草は忘れない。お前らなもうちっと大人になれないのか。大人ってなに?て誰かの声がするが。 微細な差異に敏感な先進国と違ってロシアや統合東ヨーロッパ、アフリカ、東南アジアは選択肢のあまりに微細すぎる差異に落胆しているというくだりを録画で眺め、明快な仕切りと効果は肛門様となることを知っているから寛容も生まれる。だが今は地平は広がって左にも右にも真直ぐにも行けるよと思うのだが、大いなるディファレンスという前提がこういうややこしさでも介入すれば持続保持されることに若干はほっとする。 |