骨を繋いで磨く
あまり喧しいことを言わなかった父親が東京に来て酒を呑みに行こうとはじめて誘われた私は二十歳をすぎていたかどうか。十九だったかもしれない。仕送りして貰っているこちらとしては赤提灯で馬鹿みたいに父親の財布の方を心配していたと記憶にある。後に聞いた話では放蕩息子を芸術の方面へ遊ばせたことに関して父方の親戚すべてつまり今は亡き伯父や伯母たちが末っ子の世間知らずな躾に眉を顰めたらしい。共稼ぎで家政婦に育児を任せた後ろめたさが母親には強く残り、学校に入った頃に大きな気持ちを残しながら主婦専業へ身を翻したけれども母親は息子の髭が伸びはじめても好きなようにさせると父親よりも先にすべてを決定していたようだ。 そんな甘やかしで一握りの戒めもなかった十五か六の時、仕事帰りの父親と言い争いになり殴ってみろと掴み合いになって父親の腕時計が外れそれがどこかこちらの腕かなにかを小さく切り裂いて血が流れたことがあり、それで停止の重苦しい静まりが満ちて、足元に座り込んだ母親と耳を両手で塞いだ妹が見えた。記憶は日々淡くなるけれども当時確かに私はどうしようもないガキだった。 東京の居酒屋で父と子が何を話したのか憶えていない。息子は男親を安心させようと根拠の無い薄っぺらの未来を嘯き体裁を繕ったにちがいなく、そんな未熟をおそらく見透かした父親は饒舌ではなかった。 父親の軀が尋常ではなくなってからカラダのことを考えるあまり、本人のことを見失っているような時間が確かにあった。それまでの壮健な時間は生きていることさえ当たり前すぎて、年寄りの冗談に苦笑することしかなかったが、今振り返ればここ十年程の短い習慣だが時おり食卓で過去の話を繰り返し尋ねては聞き耳をたてたことが双方にとって魂を近づけた。 お経を書き、わけのわからない篆書に没頭する父親を、母親はその額面どおりの理解で放置していたので、時折これどうだと書のできあがりの感想を息子に求め、息子も書の嗜みはないけれども美学的な眼差しで煽てるようなことは謹んで言葉を選んで真っすぐに作品をみつめることはした。今振り返れば、文字が曲がっているとか、バランスとかどうでもいいことだった。率直によいねと日々の反復をリスペクトしたほうがよかった。 父親が中年の坂を下りはじめてからある種禁欲的に道元に傾倒し正法眼蔵、正法眼蔵随聞記や他の解釈本などを捲りはじめたことを息子は知っている。坊ちゃんを標榜する教諭として管理職にも就かずもめる時にはもめたのだろう。教育の理想と現実の歪みに徹底的に身をすり減らしたと考えるのが正当だと、昨今の構造破綻からも言って構わないだろう。退職後に本格的に書をはじめたがこちらからすれば修行のような購いのような平静平安をいかにとりもどすかの苦闘のようにうかがえることもあったが、穏やかに凡庸を愛し、戦後一桁生まれ特有の黙行と秘匿の入れ子のある種偏った時代倫理の寡黙を示す唇は多くを語る機会を自ら求めなかった。然し息子は斎場で焼き尽くされる時あたりを歩き冬枯れの枝を見上げた際に、間際まで尖った味覚で旨いモノを指差した光景を浮かべ、私の父親なのだからきっと魂の軸にはあまりに固有な家族にさえ語れない違和感をたえず指先にたたえていたのかもしれないと思った。 と、そんなことを考えたのは、実家の祭壇の他にこの飯綱にも祭壇をつくろうと、斎場でポケットに入れた無駄を焼き尽くされて残った骨があまりに華奢で折れてしまっていたので接着剤で繋ぎ、乾いてからつなぎ目をゆっくり紙ヤスリで磨いていた、父親の目に映った事事を浮かべようとするのだが一気に簡単にはできないと諦めつつあった午後で、浮かんだものの検証をしてみる前に箱を探して綿を敷きその上に乗せてガラスの蓋をして仕事の机のキーボードの前に立てた。あの存在がこの骨の欠片になってしまったが、こちらにしてみればいつでも其処に在る目に見えるかたちにしておくことが、淡々とゆっくり時間を注いで人間の存在を見極めるには肝心と考えた。 |