獣の気配
差異だとか違和感だとか他者だとかジレンマを弄んできたがヒトの世界の領域内での頓着にすぎなかったようだ。 マッカーシーの長大重厚な寓話というより予知神話のような時間を肩あたりに残したまま、土の文明史 / David Montgomery を捲り始めて、この繋がりはいかにも理にかなっていると思いながら、体感を含めた言葉、観念自体が、既に大きく様変わりし、これは変容といっていい視界の晴れ方であり、間際になって、30年前の手つきを取り戻し、リビングでインスタレーションの仮設を繰り返し、どこか獣との遭遇を期待するかの衝動で、ふいに立ち上がって日に二度も走り始めるのだった。 折しも雪で白くなる日が繰り返され、窓からの眺めがドリームキャッチャーと瓜二つで、あとは通り過ぎる獣らを待つだけの格好で、長い時間窓の外へ気持を吸い取られていたこともある。この国の猟友会というものもざっと調べ、猟銃の取得の仕方まで目をとおしたけれども、散弾とかライフルという獣への距離は、どこかヒトの領域内での諦めと映ったので、猪を倒せなくとも叩き追い払う棒をまた握り、膝辺りに向かって素振りをする。 こうした意識を見えるかたちにしてみようかというわけで、もうこれは生活であり、共感を得る為の表現とかではないので、勝手自在ににやらせていただくことにする。獣への愛のはじめの形は、こちらの存在を示す、叩くという暴力になるのは道理ともいえる。いずれ寄り添う事はないにしろ。 Installation at FLAT FILE |