獣の気配

差異だとか違和感だとか他者だとかジレンマを弄んできたがヒトの世界の領域内での頓着にすぎなかったようだ。
ヘッドライトの前を幾度も野生の獣が横切り、人気の無い森を走ると獣の気配が背後から脇へ流れ並走する物音に立ち止まる。
これにも慣れてきてようやく、他者とはこちらとは全く別の生きる存在ともいえると、その相剋によって自らが顕著になることを知る。
UFOも獣も同じようなものだ。植生すら他者であり、この土もか。と幾度も座り込み手のひらに乗せていた。

マッカーシーの長大重厚な寓話というより予知神話のような時間を肩あたりに残したまま、土の文明史 / David Montgomery を捲り始めて、この繋がりはいかにも理にかなっていると思いながら、体感を含めた言葉、観念自体が、既に大きく様変わりし、これは変容といっていい視界の晴れ方であり、間際になって、30年前の手つきを取り戻し、リビングでインスタレーションの仮設を繰り返し、どこか獣との遭遇を期待するかの衝動で、ふいに立ち上がって日に二度も走り始めるのだった。

折しも雪で白くなる日が繰り返され、窓からの眺めがドリームキャッチャーと瓜二つで、あとは通り過ぎる獣らを待つだけの格好で、長い時間窓の外へ気持を吸い取られていたこともある。この国の猟友会というものもざっと調べ、猟銃の取得の仕方まで目をとおしたけれども、散弾とかライフルという獣への距離は、どこかヒトの領域内での諦めと映ったので、猪を倒せなくとも叩き追い払う棒をまた握り、膝辺りに向かって素振りをする。
白鯨とかならば別だが、職業的に猟をするヒトも、異物との出会いの他者性はいつか猟の目的の構造化によってヒトの都合の一方的なものとなり、異形への愛は凍り付くようだ。

こうした意識を見えるかたちにしてみようかというわけで、もうこれは生活であり、共感を得る為の表現とかではないので、勝手自在ににやらせていただくことにする。獣への愛のはじめの形は、こちらの存在を示す、叩くという暴力になるのは道理ともいえる。いずれ寄り添う事はないにしろ。
逃げてもいいのだがなどと。

Installation at FLAT FILE
− 懐かしい油断とざわめきは絶えて、また −
− あなたが透明を生きる時 −
− 容赦の横顔に浮かぶ哀しみを笑え −