場所という空間の知覚の
ーまったくあたらしい言葉をつくるようなものだー 喘ぐような叫びのようなため息のようなものを綴って、言葉は、固有名は観念だが、繋ぐための時空の吐息がその動態を意味させる機能で刻印されている。発音は発声と異なっている。モノをつくることはつまりこういうことだ。自らを離れざるを得ない。上下左右の大きさが計り知れない黒板に白墨で形象を描き、口の形を結び音がでるのかと弱く傾げた頭で、黒板ではだめだなと振り返った。 夢ではあったが、知覚を導く道理が新たに展開し成熟が確約されている必要の痛切が、携帯デバイスやらPCやらのテクノロジーからの遅延拡散知覚のツールロジー共有フィールドとはかけ離れて現出する時空を経験的体験的に追いかけ噛み締める日々から泡のごとく膿み出ているから、不思議はなかった。 経験の統合のベクトルが螺旋状にあるいは枝状に、ある方向、例えば上と下、右と左といった明晰さで流れ、その節々が表出されることを望み、一筋ではない文脈の、それでもそのベクトルに任せる受動の実直さで、節々を俯瞰すれば、知覚の空間があらわれた。 音節を繋げて時空を伸ばすように知覚と刻みを運動化させる空間は、辿りの巡りのまなざしの連結の経験となり、その経験は完結したイメージではないから、経験の反復、検証の反復によって時空は鍛え直され、解釈を幾度も改変しその変容の、あるいは疑いの、あるいは嫌悪の、あるいは喪失と断絶の壁面が構想されたとしても、意味を都度新たにまとう知覚時空の「遠さ」あるいは誤解で抱き寄せる余地によって、間違った形であっても存続し、それを含むことも前提とした無邪気が、そもそも最初から開かれて在ったという輪廻の構造に気づかせる。 |