他人
この国では、特に地方都市下では、他人という言葉は、家族以外、仲間以外という示され方をして、つまり、家族や仲間を意味付けるように使われる場合がほとんどだ。他人というモノ自体を考えるような言葉の響きはそこにない。けれど現在ボーダレスといった様々な国籍、言語を持つ人間が都市に集まり、環境もそれに適応変化して、他人ということが、他者という前提をあからさまにして、つまり家族や仲間という帰結を拒むように対峙する事態が増えている。まったく異なった蓄積を持つ相手に、こちらの何をどのように正確に伝えられるかが、あらゆる局面で必要となるわけだ。この時共通のシステムを共有できる者等で小さな集団を形成したマイノリティーとして態度を温存決定するのは割合上手くいくが、今迄になかった善悪白黒右左入り交じった流動的なネットワークを批判的に単独の視点でみつめることは、中々むつかしい。いずれにしろ人間なのだから変わりはないのだという楽観に支えられる大雑把な態度もむしろ逆行して、差別的な立場を形成する可能性もある。立場と態度という自覚を、相対的な印象で緩慢に培われたこれまでと違って、自己と他を明晰に認識した上で行われる必要がある。だが、他人という未知にココロを動かし、奪われ、混乱する対象であるからこそ、そこに絶えず好奇心を抱くことができる。そしてそうした錯乱によって確かに少しずつ新たな蓄積を身の内に実感できるのだから面白い |