言葉を意識的に道具のように使う。時と場合に応じて言葉を選び、使い分けている人間は僅かで、言葉を撥音するとき、日常の慣習の、あるいは身体の癖のような流れの一部として、反射的に行うのがほとんどで、読書など言葉を読み取る場合も、普段馴染みのない語呂や文体に接すると疲労するものだ。
撥音するいわゆる口語と、文語という区別を定かに暮らさねばならないわけでもないから、出鱈目に入りまぜて使うというより、そうなってしまっている。だから事柄を構築したり認識したりする言語というレヴェルで言葉と付き合うには、それなりの覚悟と付き合い方を知らねばならない。日本語は、孤立して異なった世界とのコミニュケーションが成立しない言語であるから、割合変換普及している英語などに翻訳可能かどうかを、その構築の基本に置いて考えないと、誤解を生むことになる。つまり、変換前の意志の構築が正常に行われているかを確認する必要があるのだが、輸入言語や擬音などの変換不能の言葉の呪縛に囚われ、結局対外的な言葉を失う局面に絶えず直面しているともいえる。なんとも困った言葉ではあるが、その縦書きの崩れたような極端に特殊な日本語が、なんとも不思議なことに、奇跡のように輝いて普遍を抱き寄せることがある。露伴の娘の幸田文などの作品を読むと、人間のささやかで繊細だが強靱な発音する言葉の美しさに触れることができる。メタファーに縛られ、引用や羅列に辟易する諦めを越えて、言葉を紡ぐことができる人間が羨ましい。
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