私を都度潰すシャッター
所謂深層崩壊は異常気象、温暖化などに依るとされているが、根拠のない「我々は変わらない」という不変信仰自体がむしろあぶり出された。 壊れていることは、駄目であることとイコールなのではなく、修復という探求が残されていると考えるべきで、この場合の修復というのは、元に戻すというある帰結のある短絡でなく、持続と結ばれた、修復続行という生き方なのであると考えたほうがよろしいようだ。故に壊れない完全体をつくる、つくってきたという幻想を棄てるスタンスを明快にしたい。 元には戻らないかもしれないが修復という傾向を持続すれば、照応し続ける身体の活性が都度求められ、これは結局つまり欲望化する。 一昨年より取り組み始めた、特権的な錯覚を再構築する企画を、さまざまな頓挫を経ながら続けていると、なるほどと自身の知覚認識が随分様変わりしたことに気づく。大いに誤解を受けながらけれども個人的な持続欲求がへこたれないのは、つまり、全て怪物曲線のような危うさでだが千切れることなく繋がっているからであり、幸いにも、シャッターを押す度に最近は、「私」が簡単にその結果に潰される。これを光のような事象と捉える。この場合の知覚は個人的な知覚にすぎないけれども、表出ということになると厄介で、問題となるのは、この個体享受の仕組みを、普遍的な見えるカタチにしなければ、酔っぱらいの戯言とかわらない。 |