視点 プールにて

丁度見たばかりの映画のあるショットが人間の、脹脛ほどの高さからのカメラで、全編にわたって特異な視点のカメラアングルというわけではなかったが印象に残っていたこともあり、プールの中で通り過ぎる人のイルカのようなカラダを目の端に捉える時、そうか水の中では、上下左右視点が自由であるから対象の把握も彼ら(イルカたち)は、我々ヒトのような成長に伴う目の高さという重力とともにあるある種固定的な視点とは全く異なっているわけだ。泳ぎの半分はその水中の視点のことで頭の中があれこれ巡り、立体的な視野というのは正にこのことだ。それまで毎日泳いでいるわけではないから水をかく腕の疲労もあり呼吸の不安定もあり、まだ延々と泳ぐことは無理かなと殊更に力を入れずに繰り返すクロールが、その脳内のイメージの巡りによって横に置かれたようになったかして、きづけば1キロほど壁をタッチしては往復する泳ぎに、それまでの疲労感がかき消えていて、時間をみて立ち止まり、プールから出ようとした2時間近い経過の後でも、まだずっとオレは泳げるぞと思った。

進行中のこれまでの経験を全て投入してみようと息巻く開発計画の、肝心な点は、この立体的な視線となってきており、まさかヒトの目玉をあちこちへ誘導するわけではないにしろ、ちょっとした気づきで、かなり斬新且つ安定的なものがそこに望めそうな気配を感じていたので、浮脳の癒しを与えるプールの時間は、この気配に輪郭を与える目的もある。
マタニティー水泳レッスンのようなものが端のレーンで行われていて、飛び込みプールには、最近頓に女性の年齢が若いのかそうでないのか判らないスタイルの良い人が歩き、こちら自身も老人なのか思春期なのかわからない過去と現在と未来が渾然とした生き物の目玉の意識で濡れ、揺れる水面からのそうした光景とヒトが、時間までを立体的に見ている気分的には実に心地よい錯覚のように捉えられるな。いつにない不思議な感触を抱いていた。

煉瓦造りというのは贅沢なのかそうでないのかわからないが、所謂連綿と続けられたかそけき日本家屋のぺらっとした脆弱と一瞬で燃え尽きる脆さのようなことの、でもそれでいいじゃないかと感じることもある、取り替え可能な構造を、煉瓦の隣に置いてみてやはり、煉瓦や石は少々身に堪えるなと、そういう気分で、ぺらっとした、障子を張り替えるような手軽さの使い勝手を、上下左右から眺めるという手法で、歩み寄ろうかと、プールからの帰り、わざわざ煉瓦造りの家の前の道を選んでバイクの速度を落として見上げ、やはりまた記憶に残る廃屋となった木造の傾いたような家の前でエンジンを切り、これは煉瓦のものより長い時間、眺めるのだった。