ニュートラル

ヒトが一本の線を引く時、ヒトは偏っているかどうかを見極める場合、その線の社会性に依存する。社会性とは機能であり物語であり記号的象徴性としての意味の場合もある。
だが一本の線を引く行為のヒトは、行為に於いて生きるのであり、その線が及ぼす効果や影響をその行為の内に踏まえることは、線の行方、そもそもの起因によって、強弱があり、ヒトの生きるという意味での情動を持ってすれば、呻きも哀しみも興奮も暴力も、その一本の線に封じる観力、念力を、錯覚であっても投入し、没頭し、享受する。それはそれでヒトの生きる充溢に直結し、大いなる生の排泄とヒト自ら誇り高い溜め息をつくだろう。わたしの場合はそれを、「フォンタナは死んだ」と嫌悪した。

そうでない一本の線はあり、それはヒトとやや離れた風情で、「ニュートラル」な位置感で世界を示す。このニュートラルをヒトの行為にとどめる手法を巡ってわたしは生きてきたし、これからもそうであるが、それは絶えず紆余曲折、雲散霧消する観念ではある。その思考の脆弱を振り払うには、みえる形にするしかないわけだ。

壊れ続ける世界が顕著な現実感をもって現れることになり、おそらくこれは収束などせずに、時に肥大し持続するから、「修復」というアプローチが、あるいはニュートラルを維持するひとつの正当と考えられる。これまでの刷新、改革、脱構築、革命、生成といった、ゼロからの立ち上げとは些か異なった、崩壊の継続する世界で生きるニュートラルを、時空にみえるようにすることが、欲望となりつつある。

プロダクトプログレスは、変異する時空の翻訳に似た手法で、時に傲慢な悪意に牽引され、見えない明日を一層見えないものにしてきたけれども、そうした恣意自体が、気象や自然によってあっさりと潰されることが判り、つまり、変異していたと思われていた「よりよい社会」は、「絶えず危うい共同体」でしかなくなり、生きることがその危うさに対した手法とならなければ、存在の現実感をこれまたあっさり喪失する。「互恵」ではなくやはり予感として抱いていたけれども、具体的な「機能」の思想を、この時空に多様な手法で注ぐことが未来となる。

そこには、善に近い悪も、悪に近い善もない。ただ単に、ヒトの傲慢だけが浮き彫りにされ、利他的な遺伝子を想像力でつくりだすしかないように思える。