開通した高速道で、難無く外堀あたりで降り、3時間とすこしで、気候の異なる東京にいた。幼い三つの娘を連れてさらに足を伸ばし鎌倉の近代美術館で李禹燠の立体と平面の個展を、心臓を掴まれる心地でみてまわる。後ろに先生が立っていた。恐縮しながら、お茶を飲み話などする。回顧展の形であった。新しい作品と以前の作品が併置されていると以前の作品の印象が変わりねますと言うと、そうだねと頷かれた。美術館の庭にある池に娘がよろめいたのを、李先生が咄嗟に支えてくれた。先生にしてみればなんとも頼り無い父親にみえただろう。お茶の席で、彼の膝の上に置かれた左手が、理由もわからないままひどく印象に残った。いずれ李禹燠を構造的でない見地で解析しなければならない。念力とかのレベルで。
神谷町で地下鉄を降り、坂を登って左にタワーを望みながら、交差点うをわたって、ラフォーレミュージアム飯倉で行われていたビデオインスタレーションを観る。あまりにつまらない企画に絶望的になる。空家となったビルが目立つ。
練馬インターから入った上越高速の藤岡ジャンクションで左に大きく曲がって、新設された轍のひとつもないような路を滑るように走る。軽井沢の手前で星が突然むき出しになって口を開けたまま、前のめりにハンドルにしがみついて痺れる感覚で走った。
体質というか、生理というのだろうか、とにかくぼくは完全な快楽の人、快楽至上主義者ではないらしい。どこか貧乏臭い戸惑いがつきまとう。備わった知覚機能を十全に信頼していないのかもしれない。辛うじて半端に使うのがいけない。
ピナ・バウシェの清潔な人間の集中を新宿文化センターの舞台で観たのを、ハンドルの間に思い起こして、あそこまで赤裸々な人間とは一体何を話せばいいのだろうかと漠然と考えた。舞台一面に敷かれた土に感じいって、素足で歩くことを新鮮に眺めていた。ウオルター・デ・マリアのブロークンキロメートルとアースルームが浮かんで、彼等共通の表現の観念の太さというか、重さ、堅牢な構造のその発生する意識の源を、環境的なコンテクストから探るのも悪くないと思う。
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