ー
山のなかでの乗り方が野生に返ったように荒っぽくなればなるほど馬は巧みに自身を御するという気がした。この馬は自分を置いて逃げたりはしないだろうが逃げようと考えたことはあると思った。
ー
「越境」で繰り返される十六歳の少年ビリーの認識の反復には、こうした冷静が必ずある。無頓着で一方的な信仰のような、片手落ちの思い込みは、つまり命を落とすからであり、対局の可能性を抱え持つ意識が繰り返されることで、現実世界把握を、一層現実的な歩みとする。そして稚拙なみつめはある傾向の熱を帯びることになる。
ー
ウィシアチュピクがカポルカとどんな関係を持ち、カポルカがウィシアチュピクとどういう関係を持っているか? なるほど二つの町はまったく別の世界だ。だが世界はひとつしかないしおよそ想像しうるものはすべてこの世界にとって必要なものだ。というのも、この世界は石や花や血でできている物のように見えるけれど実は物ではなくひとつの物語だからだ。世界のなかにあるものはすべて物語でありながらそれぞれの物語はさらに小さな物語から成り立っているが、そのどれもが同じ物語なのであって他の物語をすべて内側に含んでいる。だからすべてが必要なものだ。どんな小さなものでもすべて。これは厳しい教訓だよ。何一つ欠いてはならないのだから。軽んじていいものは何ひとつないのだから。それというのも継ぎ目はわれわれの目には見えないからだよ。合わせ目は見えない。世界がどんな風に成り立っているかは見えない。なくていいものは何なのか。省かれていいものは何なのかわれわれには知り得ない。何がしっかりと立ち何が倒れるかは分からない。そしてわれわれの目から隠されているその継ぎ目はもちろん物語それ自身のなかにあり、その物語の住み処も居場所も物語るという行為のなかだけにあるのであり、物語はそこを住み処にしそこで生きているのだからわれわれが物語るのをやめるということは絶対にない。物語るという行為に終わりはない。だからカポルカであれウィシアチュピクであれ、他のどんな名前の場所であれ名前のない場所であれ、もう一度いうけれどもあらゆる場所での物語はひとつなんだ。まさしくひとつなんだ。
ー
荒廃した教会の中で、独りの自らが逸脱者、脱走者と名乗る信仰の男が、ビリーに語るのは、作家の心情でもある。徹底した時空の流れボリュームに構想の術を尽くすように付き合いきることを示唆している。そこには仕草や動き、匂いや光り、音と動物、気配と気象、個と類、相対と絶対、文脈と予感などすべて含まざるを得ない。
ー「越境」 / Cormac McCarthy (1933~)
眠りの中で妙な夢を見る。フィジカルを標榜する旧知の作家がカラダの動き自体を推進力とする手作りの陸上ヨットのような乗り物を乗り回し、明日は野球だよと叫びながら、目の前で久しぶりだなとこちらをみた。まるで被災地のようだとふたりで同時に呟いた漁村に打ち上げられた巨大な海洋生物を見て回り、これが喰えそうだと切り取って麻袋の中へいれていた。
|