、。と植生

俳句や短歌は文字数が形式化されているので、恣意表現を除いて「、」「。」は使われないが、世界的に希有な脈絡で位置するこの国の右縦書きという言語構造は、、。で支えられている。個人的には喉の奥で音読みする際の、認識空間の刻みのような体感がある。つまり「、。」の優れているものは、言語記述の把握へ真っすぐに繋がるのであり、そうでないものは、言語として成立以前に位置しているといっていい。

物事の人間的な位置として、この、。の性格を引き受ける空間を考えるようなことを、随分長いことしてきたけれども、これはつまり余白(blank)の扱いでもあり、加えて、それ自体( in itself; the thing itself; this itself; for its own sake; per se)という唯物的な意味を与え、「あるがまま」であることを持続的に考えたいという、個人的な傾向がこれを支えていたようだ。

ディティール細部へ近視眼的没入する考え方も欲望も無論あるけれども、最初からその快楽は自滅的(現実空間を喪失する)であるという自衛感覚があり、これは未だに拭えていない。これも、時に眼差しをスライドさせて、例えば言語記述の「、」「。」の位置を検証する「癖」のようなものが、センテンスそれ自体の耽美から身を放す効果はあったようだ。

世界的な類型のバランスとしては、左横書きが主流であり(モンゴルの左縦書きは注視に値する)、この左横書きの一見水平に広がる記述空間は、実は垂直構造を示しており、折り返してダンテ地獄編のように長大な縦長の下へ下へとスクロールする。この国の右縦書きは、一見雨粒ごとく垂直に滴っているようでありつつ、縦改行の文字数という形式を踏まえれば、左側へと首を回すように言語想念が水平に広がる構造がある。
現代社会の都市構造は、高層ビルが並列する垂直構造を指向しているかに眺められないこともないけれども、生活空間に持続的に引き受けられているのは、水平に広がる、いわば「洞窟」であり、また、目玉自体が横に並んでいることも、水平への把握を優先しているような動物的機能性の説明をそこに無理矢理置くこともできないわけではない。

知覚とその把握処理がその時どこに向かうかは、知覚機能のある個体個別存在の、時々の有様(気分・生成文脈)に左右されるから、ひらたく全てへ決定的な知覚誘発を目的化させるわけでは勿論ないし、関心はない。(兎角このあたりを誤解される)
つまりわたしの目的は、「、。」のごとき「寡黙な支え」あるいは「道具」として、水面の下に、表情の骨に仕組まれる性格がある。同時にブランクを扱う思想として、自らの「併置」というみつめのメソドが、「、」「。」とほとんど近しいものとなってきたようだ。そして、この行方が、「煽動」「誇大」「叫び」などといった先見性、革新性とは逆のベクトルを、自身の文脈のありもしないと感じていた方向へ、まさに枝のごとく伸びはじめているので、これはまんざらでもない。危惧されるのは、時代の表象は百年前のモダンなアジゴーグに支配されつつあることで、この短絡反復が刺のように知覚障害を伝播させている。

個人的な課題として浮かび上がったのは、植性的「分枝」の余白世界と、この「併置」(仕草)における「、。」を、いかにひとつの仕方で扱えるかということになり、これは、従来の世界認識文脈自体への解釈と翻訳方法を再検討しなければ対応できない上、刺にも対抗せねばならず些か苦労だが、大雑把なものを、フィジカルトレーニングにかえるようなこのアプローチ「それ自体」が、しかし他にとりかえのきかない愉悦ともなりつつある。