常識

つくったものを置く(放置する)ということと、置く(放置する)ものをつくるという差異に悩まされないで、置くことをつくるべきだった。だから、つくられるものがそれ自体でどこに置かれてもいいような自立性に、仕草が偏ると、制作者がオブジェをつくるだけの意味になるし、かといって「置く」ことが純化できないと稚拙なヂィスプレイに陥る。こちらがあらゆる状況、環境にまず依存して、それを呑み込んだ上で、置かれるものに、辺りを呼び込むような仕草を与えたいのだ。
 当て擦る仕草から、それを控えめに削ることを続けると、無根拠はいいが、無関心を装うような冷たい空間になる。こういったことがある程度繰りかえされた土壌があって、戦略的に行われる無関心は、新たな関心を呼ぶだろうが、装うこと自体が人間的と映らない意固地さになって閉じる場合が恐い。
 ぼくは、言語でものを考えないかわりに、絵画や彫刻で、ものを常識的に捉えることをしてきたわけだが、すべての表現が画布と台座に支えられるモダンな時代ではないから、表現を、人間的なシステムとして、態度として考えることが多い。その時危険なのは、寛容が働いて、怠惰を許してしまうことだ。世界に繋がっているという体感を空間に与えるには、批判的で洗練された手法が現われる必要がある。単に一瞬共同の意識が歪む程度の揺らぎを醸すことが作品の役割ではない。長い時間、空間に横たわって、存在を揺らすことは揺らして、横たわっているという存在を与えないといけない。
 放置するということは、自身の子供を生かせることに似ている。子供はエゴから弾きだされたものにすぎないが、だからこそ単独の存在を誇示する。これを眺める時、我々ははじめて人間的な視線を持つことになる。2ー30年も違った時代を生きる人間に、親の現在をゴリ押しするのは馬鹿げている。しかし、それしかできないのだから、そのゴリ押しは、せめて極めて常識的であるべきだ。なぜなら、今は都度現れる力に、あらゆる世代が等価に、而も瞬間に隷属してしまうような時代だからだ。制作はこのような世界にむかって放たれる。