言い訳と悪口

弁明と批判ではなく出口のない悪口に終始する世代というものがあるのかと、呆れて黙っているわけにもいかず、いい加減に人の悪口はいわないでくれと頭を下げていた。
これこれこういうわけで仕方がない。と言い訳をしなかがら、挙げ句あいつのせいだと悪口を放つのは、メディアのせいではないかと思った。
そういうテンプレートを、これでもかと生産し排泄しているから、それを眺める人の口に乗り移る。
本人は全くそのつもりではないのに、いつの間にか性善説に乗り込んで、一方的な熱狂の一員になってしまって、それに気づかない。
この恐ろしさは、悪を徹底して排斥し、排泄し、便所のドアを思い切り閉める程度の解決策しかないことだ。
現代性はそういう風潮に支配されている。
美しいもの、卑しいもの、そういう片付け方をされているようだ。

知らぬうちのそういったものの、ウイルス的支配に効く薬は、実は現実世界の眺めなのだが、この景色自体も、罹患のうちに最早見えぬ光景と薄れるらしい。
敏感鋭敏な小さな感性が、こうした鷹揚でざっくりとした流れのような社会の怠慢の中で、健やかにと祈るほうがむつかしい。
どうしたら、そこに強く太い手を伸ばせるか。