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すべての思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている。あるいは、思想家は自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地平に耐えねばならぬという恐ろしさを見極めようとする所からのみ生まれる、といってもよい。
思想と思想とが格闘しているように見えるときでも、実際は各自の思想の絶対性と各自の現実の相対性の矛盾の地点でひそかに演じられているにすぎない。ある思想家が絶対性を主張し、他の思想家が絶対を主張する、という所で決戦が行われたためしは一度もない。いいかえれば、思想家の全葛藤は、自己の思想の絶対性と、それを相対化する現実的他者即ちそれがまた幻想的な表現をとって現れる思想との内的な対決から生まれるが、勝負はつねに彼がどれだけ自己の思想の相対性を検証しえているかどうかにかかわり、そこにのみかかわっている。
思想家同士は、ある時代性の制約の中で殆ど勝負のつきようのない小競合を繰り返しているにすぎない。だれがその勝負の審判官となりうるか。現実的有効性や現実的勢力の多寡による歴然とした判決が思想に下されることはない。むしろ思想の恐ろしさは決して現実的に決着がつかないという所にある。即ち勝負はつねに個人の内面における矛盾をどれだけ検証しえているかによって、つまり各人の固有の幻想の根源の所で静かにつく、意識されると否とに拘らず。
凡庸な思想家は殆ど現実的情勢の変転に応じて「無自覚のうちに」しかも「大義名分によって」めまぐるしく変転して行かざるをえない。無変化も変化の一様にすぎない。しかし、彼らの変化無変化は、彼らが信じているように現実的条件の変動に応じているのではなく、また現実的変動にも拘らず死守されているのではなく、実に彼らがその内部に於て自己の相対化を残忍な程に検証するという不可欠の営為を済ましていず、またこれからも済ますことがないためなのである。
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思想はいかに可能か (1966) / 柄谷行人 (1941~) 初期論文集より抜粋
25歳の青年の刃のようなプロローグは45年経過した今でも新鮮で、「正義」のようなオーラすらある。
思想と思考の違いは、検証の深さと、論理よりも「筋」と「塊のボリューム」であるからなと、何気なく手にしてまた捲り始めた言葉が、自らにかなり有効に機能する実感があった。
促されるままに、検証を再び開始し、「相対的な配置」を再考するのだった。
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